竪琴音色キリスト教会の栞

私たちはプロテスタントのキリスト教会です。主日礼拝(日曜日10時〜)、水曜日(祈り会)。当教会はエホバの証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教、その他新興宗教団体とは一切関係ありません。

マリア崇敬の「言語化」試論

あくまでも以下は、マリアに対する「崇敬」の意味的な分析の断片であり、一切、編集・校正されていない断片である。ご了承願いたい。

 

英語

Veneration of Mary

 

ラテン語

Veneratio Mariae

ヴェネラティオ マリエ

 

veneratio(ヴェネラティオ)「崇敬」だが「敬愛」と訳した方がわかりやすい。

他方、「cultus」(クルトゥス)「礼拝」「崇拝」という意味であり、ラテン語において礼拝と崇敬は厳密に区別されている。

英語の「veneration」ラテン語を語源としているため、「崇敬」「尊敬」「崇拝」という意味である


ところが英語の「respect」ラテン語「respicio」(レスピシオ)を語源としており本来、「振り返る」「見回す」という意味なので、「マリアを尊敬する」という表現は不適当であろう。


しかし反対に「マリア崇敬」の本質は「マリアを(幸いな者として)見る」ことにある。


キリスト者はマリアの信仰に自分自身を重ね合わせ、マリアを「教会の原型」として見るのである。


"この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。"

ルカの福音書 1章48節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


しかしながら、キリストを「見ないで信じる者は幸い」なのである。


"イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」"

ヨハネ福音書 20章29節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


キリストを信じて神を「礼拝する」(羅 adorate)のは、マリアを「崇敬する」(羅 respicias)ことと明らかに異なっている。マリア崇敬に慣れ親しんでいる方々にも、マリア論が不要にはならない理由である。


カトリック神学の内から見ればわマリア論は、その他の教義神学上の主要なテーマが出会う交差点に位置づけられます。

光延一郎著『主の母マリア』(教友社) 16頁

キリスト教的な希望

北欧はデンマークキリスト教哲学者キルケゴール(1813-1855年)はヨハネ福音書11章のラザロの復活の記事を引用しながら、キリスト教的な希望に関して以下のように書いています。

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「この病は死に至らず」(ヨハネ伝11・4)。それにもかかわらずラザロは死んだ。キリストの弟子たちが、「我らの友ラザロ眠れり、されど我呼び起こさんために往くなり」というキリストのその後の言葉の真意を理解しなかったときに、キリストは弟子たちに直截(ちょくさい)にこう語った、──「ラザロは死にたり」(11・14)。かくてラザロは死んだ、にもかかわらずこの病は死に至らなかったのである。ラザロは死んでしまった、にもかかわらずこの病は死に至っていない。……中略。
よしラザロが死人の中から甦らしめられたとしても、結局はまた死ぬことによって終局を告げなければならなかったとしたら、それが彼にとって何の役に立とう? キリストが、彼を信ずるすべての人にとって復活であり生命であるような方でなかったならば、それがラザロにとって何の役に立とう? いな、ラザロが死人の中から甦らしめられたからして、その故ためにこの病は病は死に至らないのである。一体人間的に言えば死はすべてのものの終りである、──人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるのである。けれどもキリスト教的な意味では死は決してすべてのものの終りではなく、それは一切であるものの内部におけるすなわち永遠の生命の内部における小さな一つの事件にすぎない。キリスト教的な意味では、単なる人間的な意味での生命におけるよりも無限に多くの希望が、死のうちに存するのである、……中略。
それ故にキリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病」ではない。いわんや地上的なこの世的な苦悩すなわち困窮・病気・悲惨・艱難・災厄・苦痛・煩悶・悲哀・痛恨と呼ばれるもののどれもそれではない。それらのものがどのように耐え難く苦痛に充ちたものであり、我々人間がいな苦悩者自身が「死ぬよりも苦しい」と訴える程であるとしても、それはすべては──かりにそれらを病になぞらえるとして──決してキリスト教的な意味では死に至る病ではない。
キェルケゴール著『死に至る病』(岩波文庫)

 

キリスト教的な希望を再確認した上で私たちは聖書を開き、ダビデの信仰から聖書の黙想をしていこうと思います。

 

詩篇

18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。

 

詩篇18篇は冒頭の題にあるようにダビデがサウルの迫害から、主によって救い出されたことを歌ったものです。「広い所」というのは「מֶרְחָב」(メルハーブ)というヘブライ語が使われています。七十人訳旧約聖書(LXX)ではギリシャ語の「πλάτος」(プラトス)で「地上の広い表面」と訳されています。

 

ダビデ「広い所」という言葉によって、神が彼を助けられたことを思い出し祈っています。「わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました」の「助けられました」ヘブライ語「חָלַץ」(ハラッツ)「ρύομαι」(リオメー)で「危険から救い出す」「保護する」「守る」の受動相と同じ意味です。神は試練の中の彼を喜びとして、サウルの迫害から彼を救い出し保護して守って下さったのです。

 

しかしながらキリストを信じて何故、依然として私たちは苦しみ、思い煩って痛まなければならないのでしょうか。神は私たちの危険から救い出して下さる御方ですが、試練と困難、そして問題が襲いかかってくる度に絶えず祈り耐え忍ばなければならず、キリスト者の戦いは永遠の憩いに安息することは不可能のように思えてしまいます。

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預言者は次のような疑念の生ずることを、十分に念頭に置いているようである。

すなわち、神の恩愛について語られる度ごとに、「それでは何ゆえに、神はその民が苦悩し、かくも厳しい圧迫を、蒙るのを黙許されるのか」と。

そこでダビデは、このような場合にも、神の憐れみはわれわれにとって不足はない、と教える。

慰めと癒しとが、祈りのうちに備えられているからである。

時代的な状況は、もろもろの困苦がわれわれに迫れば迫るほど、その時はまさに祈るべき時であるということを、われわれに教示している。

すなわち、ダビデが、悩みのうちにあって祈った、そしてそれによって広い所に置かれた、と言う時がそうである。

カルヴァン著『旧約聖書註解 詩篇Ⅳ』(新教出版社) 97-98頁

 

そうであるならば、私たちにとっての「広い所」は一体、何処にあるのでしょうか。神に私たちは切実に祈りを捧げ続けているはずなのです。詩篇註解におけるカルヴァンの言葉に改めて注目してみましょう。「慰めと癒しとが、祈りのうちに備えられている」。祈りにおいて私たちは「慰めと癒し」という備えを信仰の手で受け取っていく必要があります。主からの「慰めと癒し」が隠されているのではないかと疑って、何も忙しく見つけ出そうと必死になることはないのです。

 

ローマ書

10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。

 

ですからダビデは試練から救い出されて、神に感謝していますが、同時に「広い所」に置かれたからだと理由を述べています。祈りにおいて神は慰めと癒しを与えて下さいます。「神の慰めと癒しが大きく広がっている場所」に私たちは招かれているのです。主の主、王の王からの招きを拒絶する理由など、私たちにはありません。

 

 ①神の慰め

第二コリント書
1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
1:5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。

 

②神の癒し

第一ペテロ書
2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

 

上記の聖句に共通しているのは〝キリストの十字架の苦難と死〟です。神は苦難の中にいる私たちに対して、キリストに満ち溢れている慰めを与えて下さる御方なのです。ただの人間的な同情や共感でなく(それらも当然含みますが)、神の愛の故の、──即ち、キリストの十字架の苦難と死に明示された神の愛の故に私たちの罪は背負われて癒されたのです。聖書の「癒し」「キリストの十字架の苦難と死という神の愛」から離れたものでは決してないのです。

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キリストの苦難と十字架の死を信じて祈る中で、神の慰めと癒しを受けた後、神は私たちをそのまま放置して見捨ててしまうのでしょうか。主は「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」(ヨハネ福音書14:18)と約束して下さいました。

 

第一コリント書
2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

 

主が導いて下さった「広い所」を預言者ホセアはイスラエルは強情な雌牛のように強情である。今、主は小羊を広い野に放つようにして、彼らを養うことができようか」(ホセア書4:16)と語っています。神はキリストの故に私たちを慰めて癒した後、小羊のように養って下さるのです。神は神の民の私たちを徹底的に養い続けます。主は私たちを捨て去ることなど不可能だからです。この世の旅路を歩む以上は確かに千差万別の戦いはありますが、余計な争いには関与したくないものです。

 

神に祝福されたイサクは裕福になりましたが、その結果、異邦人たちに井戸を塞がれたり、争いが続きました(創世記26:12-22参照)。その度に移動して、ついに争いのない井戸を掘ることができました。

 

創世記

26:22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから(מֶרְחָב)、われわれはこの地にふえるであろう」。

 

サウルによってダビデは何度となく死の恐怖に襲われたはずなのです。それなのに何故、詩篇において弱さの吐露と共に信仰を宣言し、神の裁きにその身を明け渡し委ねることができたのか不思議に思うかもしれません。ダビデの信仰、及び、その生涯を語り尽くすことはできませんが聖書の言葉を黙想して祈ることにして閉じたいと思います。

 

第二コリント書

1:8 兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、
1:9 心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。
1:10 神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。

 

 

キリストにおける神の愛から引き離す者は誰か〜宗教改革500年を控えて〜

本年は宗教改革500年記念ですが、マルティン・ルターの神学が改めて注目されています。宗教改革(Reformation)によって、カトリックからプロテスタント諸教派が誕生しましたが、それらの教会の特徴は聖書の権威の強調、信仰義認による救い、信徒の普遍的祭司性、神の主権的な恵み等を強調しています。

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しばしば巷で「カトリックプロテスタントの違いって何?」という質問がありますが、むしろ西方教会と同じ伝統と系譜に結ばれていることに注目したいものです。両教会は三位一体、キリストが完全な神であり完全な人間だったにも関わらず両性が一致する位格的統合(ένωσις καθ ὑπόστασιν)、キリストに対する信仰で罪から救われるという本質的教義を共有しているからです。

 

さて、プロテスタント諸教派の数は多いのですが行為義認に対して、程度の差はあれども信仰義認を対置させている点は共通しています。

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あなたがすべての戒めを充たし、戒めが矯正し要求しているとおりに、悪い欲望と罪から解放されたいと願うのならば、さあ、キリストを信じなさい。キリストにおいて私はあなたにすべての恵みと義と平安とを約束する。あなたが信じるなら、これを得るし、信じないなら、得ない。数多くありながら、なんの役にも立たない戒めの(要求する)すべての行いをもってしてもあなたにできなかったことが、信仰によって、たやすく簡単に充たされるようになる。なぜなら、私は簡単にすべてのものを信仰の中に置いたからである。信仰を持つものはすべてのもの得、救われるが、信仰持たない者はなにも得ない。

マルティン・ルター著『キリスト者の自由 訳と注解』(教文館) 23頁

 

私たちの教会では聖公会祈祷書』に準拠して、主日聖餐式の際、「聖餐準備の式」における聖書箇所を朗読していますが下記の通りです。

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十戒と山上の祝福を結び合わせ完成させたのは律法でなく福音でした。私たちは旧約聖書が戒めと律法で、新約聖書が福音だと考える、そのような書物的分類をする傾向があるかもしれません。

しかしながら、聖書全体から私たちは古い契約から新しい契約への移行を教えられていかなければ、新約聖書のすべの命令、──特に「互いに愛し合いなさい」という隣人愛でさえ、旧約聖書に匹敵する新しい戒めと律法になってしまいます。マタイの福音書5-7章の山上の説教を直接的に自分自身の適用とするならば人間には不可能な教えだと悟り、打ち倒されること間違いなしでしょう。

 

ヘブル書
7:18 このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、
7:19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。

 

即ち、律法はただ命令を守る行為義認とは別次元であって、キリストによって私たちは「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」(マタイの福音書5:2:)と改めて教えられる必要があるのです。

では一体、「律法学者やパリサイ人の義」よりもまさるためにはどうすれば良いのでしょうか。

当時のユダヤ教エルサレム神殿、大祭司を頂点とする階層的な祭司制度、ラビが主導する会堂(συναγωγή)の安息日礼拝、旧約聖書研究とその朗読、戒めと律法の遵守、ユダヤ教への改宗を目的とした異教徒への伝道は世界宣教に至るまで広がっていました。

それらの律法の義にも関わらず、主は強烈な言葉をユダヤ人たちに浴びせました。

 

マタイの福音書

23:13 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。

23:15 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

23:23 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

 

キリストに対する信仰は戒めと律法に破れ果てた私たちに神の主権的な恵みを与えます。

①過去・現在・未来に渡る罪の赦し(ヘブル書7:24-25参照)

②律法の呪いからの解放(ガラテヤ書3:13参照)

③キリストにある自由を味わう(ガラテヤ書5:1参照)

「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか」(ローマ書6:15)という逸脱に対して「断じてそうではない」と宣言できる

⑤キリストを信じる者は罪に定められず、聖霊の導きに服従することで私たちの中に律法の要求が実現していく(ローマ書8:1-4参照)

⑥他方、キリスト者も罪を犯してしまうことは回避できないため、キリストに弁護して下さる恵みの故に罪の悔い改めが伴う(第一ヨハネ書2:1参照)

 

こうしてキリストを信じる以前の罪は完全に赦されることを誰もが信じているはずです。もちろん、現在と未来の罪も赦されました。異端者でない限り、キリストに対する信仰に基づく救いを疑う者は私たちの中に存在しません。

 

ローマ書

 7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

 

だから聖書を古い契約のまま読んではならない、──というよりも、自分自身の渾身の力と頑張りにより、窮屈な律法の下で死んだように歩む必要はなくなったのです。戒めと律法など守らなくても良い、好きに生きれば良いという無律法主義(Antinomianism)ではありません。

 

使徒パウロは次のように反論しています。

 

ローマ書

6:1 では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
6:2 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。

 

キリストに対する信仰は徹頭徹尾、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」(ローマ書1:17)という道。「信仰のみならば善行は不要なのか」という疑問は罪からの救い聖化が曖昧模糊になっている証拠です。何度言っても言い足りない事柄ですが、キリストが私たちを救うのであって、信仰は私たちが福音を受け取る手のようなものです。

 

ここで或る問題が発生するかもしれません。「キリストに対する信仰によって無条件に罪が赦されて、戒めと律法からも解放されることは了解した。だがヤコブ書2章26節『霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである』と書かれているではないか」と問われたならば、私たちは「あなたの言う通りです。行いのない信仰は死んでいます」と明確に同意することができます。

ですがヤコブ書の「行い」(έργον)が何を意味しているのかが問題です。キリストに対する信仰と同格の行為義認も不可欠であると注意喚起しているのでしょうか。

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マルティン・ルター『聖パウロのローマ人にあたえた手紙への助言』(1522年)「律法」に関して述べながら行為義認の問題にも触れています。

 

まず「律法」と言うこの語を、あなたはここで人間的な意味に解して、どういう行いをなすべきかとか、なしてはならないとかを指示した教えであるかのように考えてはならない。

かようならことは、たとい心がそこになくても、行為だけで律法をみたすことができるので、人間的な規定にかかわることにとどまるが、少し神は心の根に従ってさばきたものである。

それ故神の律法も心の根を求めるのであり、行為を持ってはみたされない。

むしろ却って心の根にたよらない行いは、これを偽善及び虚偽として責罰したもうのである。

それ故詩篇第115篇には、すべての人を偽り人と呼んでいるが(詩篇116:11)、実際何人も、心の根から神の律法を守るものはなく、またそれはできないことでもある。

なぜなら誰しも自己のうちに、善への嫌忌(けんき)と悪への愛着とをも蔵しているからである。

善に対する心からの願いの存しないところでは、心の根は神の律法にかかっていない。

そしてそのとき、たとい外見的には多くの善行と貴むべき生活とが輝いていたとしても、罪もまた疑いなく存し、神の前には怒りに価いするのである。 

マルティン・ルター著『キリスト者の自由 聖書への序言』(岩波文庫) 69-70頁

 

このようなわけで、ルターは「律法の行為をなす」「律法を満たす」は別の事柄であると言っています。「律法の行為」とは「人が自分の自由な意志と自分の力とに基づいて律法に準じて行いまた行うことのできるすべてなのである。しかしかような行為の下にまたそれとならんで、心のうちに律法に対する嫌忌(けんき)と強制とが残っているので、かような行為は全て無に帰し、何の益にもならない」(同書72頁)。ですから、あくまでも「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られている」(ローマ書7:14)ため、身体的な行為によっては決して満たされるものではありません。

 

ローマ書

 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 

「律法の行為」と反対に、霊的な律法を強制されず、押し付けもされずに、聖霊歓喜と愛の故に自発的に、且つ、積極的に私たちはキリストの愛に生きることになります。「キリスト者になる以前の罪は赦されますが、キリスト者になった後に犯した罪は赦されない。罪が赦されるためには善行や償いがなければならない」という考え方は単刀直入に「律法主義」でしかありません。ですが聖化」における「善い行為」自体を否定しているわけではありません。

 

ガラテヤ書
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

 

霊的な律法を満たすもの、──それは聖霊によって神の愛を注がれた私たちの信仰なのです。何故ならキリストが律法を完全に実現して下さったことを信仰は同意するからです。だとすれば、キリストに対する信仰から真の善い行為が生じることは疑うことの不可能な事実となります。

 

エペソ書
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
2:10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

 

上記聖句の「良い行い」「行い」ヤコブ書の「行いのない信仰」「行い」と同じく「έργον」(エルゴン)が使われています。エペソ書ではキリストに対する信仰の恵みに基づき、私たちが救われたと断言しつつ、救われた後の聖化の過程のために「神は…良い行いを…あらかじめ備えて下さった」(10節)と強調しています。「あらかじめ備えて」「προετομάζω」(プロエトマゾー)で「あらかじめ準備する」「用意する」なので「神が前もって準備して下さった良き行為の故に」が直訳になります。

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聖書は一貫して「善い行為」救いの条件としてでなく、救われた後の聖化の結果として扱っています。しかも「人間の善い行為」でなく「神があらかじめ準備した善い行為」を信仰で受け続けていく歩みとなるのです。

 

神の言葉とは、福音書の中にあるような、キリストによって起こった説教にほかならない。

すなわちそれは、あなたの生活と行いとがすべて神の前には無であり、むしろあなたのうちにあるすべてのものとともにあなたが永遠に滅びるほかはないと、神があなたにお語りになるのを、あなたが聞くことであるべきだし、またそのようになされているわけである。

そのことをあなたが、自分でなすべきとおりに正しく信じるならば、あなたは自分自身に絶望して、「イスラエルよ、あなたの破滅が来る。あなたの助けである私に背いたからだ」と言うホセアの言葉(ホセア書13:9)が真実であることを告白しなければならない。

ところが、あなたがあなた自身から、すなわち、あなたの滅びから脱出できるようにと、神は、愛するみ子イエス・キリストをあなたの前に立て、その生きた、慰めのみことばによってあなたに、「あなたは確固たる信仰を持ってキリストに身を委ね、大胆にこれを信頼すべきである。そうすれば、その信仰のゆえに、あなたのすべての罪は赦され、あなたの滅びはすべて克服され、あなたは義となり、真実となり、平安を与えられ、義しくなり、すべての戒めは、充たされて、あなたはすべてのものから自由とされるであろう」と言おうとするのである。

マルティン・ルター著『キリスト者の自由 訳と注解』(教文館) 19-20頁

 

こうしてキリストをひたすらに信じて、信じ続けて、信じ抜く私たちには神が準備された善い行いを受けつつ、詩篇1篇3節「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」ように違いない。

 

第一ヨハネ
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。 

 

神を愛することはキリストに対する信仰の出来事ですし、加えて「イエスを神の子と信じる者」(5節)は世に対する勝利なのです。聖霊の第一の働きはキリストに対する信仰ですが、他方、聖霊の結ぶ唯一の果実は「愛」(αγάπη)なのです。神は愛です、そして同時に私たちがどんなに罪に腐敗し絶望の底で呻いていたとしても、神の愛が届かない場所はありません。

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神の愛をキリストの十字架の死と復活という恵みの故に信頼していきましょう。神に愛されている張本人は今、このブログを読んでいるあなたです。SNSもリアルも関係なく、もしもあなたが何らかの事情で教会の礼拝に参加できなかったり、まだ求道中で確信がなかったり、既存の教会組織や鼻で息をする人間に躓いてキズを深めていたとしても諦めるのはまだ早いと信じます。主は少なくとも、いつまでもあなたの帰還を待っておられます。力不足は承知ですが私もあなたのために祈っています。

 

ローマ書
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

聖霊による信仰

現在、聖霊に関して述べることは非常に勇気を要することです。その最大の理由は三位一体の神の第三位格としての聖霊と、聖霊の賜物と果実を区別できていないことから由来する対立・議論だと思われます。

しかしながら、キリスト教は伝統的な儀式だとか、神学、日常生活における信仰的実践に限定されるものではありません。

キリスト教信仰には当然、体験的な真理を含んでいるのです。

そして体験的な真理を得させる御方は聖霊がキリストに私たちの心を向けさせることに基づきます。

未信者の時、私は日本人として珍しく徹底した無神論者を自認していました。フランス文学や哲学に傾倒し、初詣や仏壇に対して宗教的な所作を拒絶していた程です。正直、あれらの祭りや儀式は宗教家たちのお金儲けだと考えていたし、キリスト者になった今も極力、礼拝から宗教的な要素を簡略化させるよう、努力しています。特に金銭の何らかの癒着に日本人は厳しい視線があるので、献金に関して慎重に考え、本人の自発性を励ますだけです。

さてキリスト教に限らず宗教嫌いの私が何故、キリスト教の信仰に導かれたのか?という具体的な経緯は後日に委ねて、三位一体論という正統教義を死守したいならば決して避けて通れない聖霊に関して基礎的な考察をしたいと思います。

 

聖霊によって祈る〓

キリスト者と未信者を区別するものは様々ですが、神に対して〝祈ること〟キリスト教信仰の特筆すべき事柄です。

神に祈ることは何か必死に願い事をしたり、自分自身の御利益を求めることとは限りません。それらも含みますが、祈りの中身は神の望むことを望み、神の喜ぶことを喜び、神の悲しみを悲しむことなのです。

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では一体、神の御想いを感じ取るにはどうすれば可能となるのでしょう。

 

ローマ書
12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

 

相手の気持ちに共感したいと思う時、私たちは同じ感情を共有したいと切に願うものです。そのためには相手の心に寄り添い、小さな声を傾聴して、主の愛に満たされていなければ心の琴線に伝わらないかもしれません。

 

第一コリント書
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

 

神は私たちに三位一体の第三位格である聖霊を与えて下さったのです。

 私たちは自分自身の事でさえ理解できないことがあります。否、真の意味で自分が自分であるという自己同一性(アイデンティティー)を保って生きる術を私たちは持っていません。

 時に妥協し、自分に対してさえ偽り、私が誰であるかすらもわからなくなってしまう、──これがリアルの不条理です。

 だからこそ、キリストを恵みの故に信じるならば、私たちは理不尽で説明不可能な世という地平で、神に向かって心を上げるしかありません。

 

天の父なる神に
キリストの御名を通して
聖霊によって

 

キリスト教の祈りは神の愛を動機とし、聖霊によって注がれ、初めて味わうことができる、三位一体的な関係の中の会話です。あなたも孤独と訣別して神に祈る幸いを経験してみませんか。

 

聖霊という無償の賜物〓

神学的に「聖霊バプテスマ」「聖霊の賜物」「異言の賜物」等、聖霊に関して語ろうとしたら言葉が足りないでしょう。

 しかしながら聖霊がどのような御方であるかを認識することは、あなたの大切な家族、大好きな異性、仲の良い友人たちを愛することへと結び合わされているのです。

 

第一ヨハネ
4:16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
4:19 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。

 

神の愛を注ぐ聖霊の第一の働きは何でしょうか。 言うまでもなく聖霊の賜物や果実を与えることではありません。キリスト対する信仰に導くこと、これこそ聖霊の第一の働きなのです。

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しかし、信仰こそが御霊の主要な業であるから、聖書が御霊の力と働きについて至るところで示していることの大部分は信仰に関したものである。なぜなら、信仰によらなければ御霊は我々を福音の光に導くことができないからであり、それはヨハネが「キリストを信じる者には神の子となる特権が与えられた。彼らは肉と血から生まれたのでなく、神から生まれたのである) (ヨハネ1:12-13) と言う通りである。ここでは、不信仰に留まるほかなかった者が信仰によってキリストを受け入れるのは超自然の賜物であることが、神と血肉を対置することによって確言されている。キリストが「あなたにこのことを啓示したのは血肉でなく、天に在す私の父である」と答えられたのも同じである(マタイ16:17)。

テサロニケの人々が「御霊の聖化と、真理の信仰によって、神に選ばれた」(第二テサロニケ2:13)と言うのも同様である。彼はこの文脈で、信仰は御霊によらなければ生じないことを簡潔に警告している。

ジャン・カルヴァン著『キリスト教綱要 改訂版 第三篇』(教文館) 1・4

 

聖霊による信仰〓

ΠΡΑΞΕΙΣ ΤΩΝ ΑΠΟΣΤΟΛΩΝ 2:38
Πέτρος δὲ ἔφη πρὸς αὐτούς· Μετανοήσατε, καὶ βαπτισθήτω ἕκαστος ὑμῶν ἐπὶ τῷ ὀνόματι Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰς ἄφεσιν ἁμαρτιῶν, καὶ λήψεσθε τὴν δωρεὰν τοῦ ἁγίου Πνεύματος.

 

使徒行伝
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

 

口語訳では聖霊の賜物」と訳されていますが、新共同訳新改訳フランチェスコ会では「賜物として聖霊を」と訳されています。

 「καὶ λήψεσθε τὴν δωρεὰν τοῦ ἁγίου Πνεύματος」には「λαμβάνω」(ラムバノー)の未来形が使われており「受けるであろう」という意味。

 注意しなければならないのは「τοῦ ἁγίου Πνεύματος」をどのように訳すかです。

これは「内容の属格」という用法で聖霊の」でなく聖霊という」と訳さなければなりません。「δορεά」「無償の賜物」という意味なので聖霊という無償の賜物を」となります。

 

キリストを信じると聖霊の賜物を受けるであろう」なら、むしろ「χάρισμα」を使うべきでしょう。

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「そうすれば、あなた方は聖霊の賜物を受けるであろう」。この「聖霊の賜物」は、聖霊を賜物として賜わることである。聖霊の賜わる賜物としての異言や癒しや悪霊祓いの力を受けるという意味ではない。つまり、あなたがたもキリストの名によるバプテスマを受けることによって我々の仲間になり、我々が先に受けた聖霊をあなたがたも受けるのだ、と言うのだ。
渡辺信夫著『使徒行伝講解説教 1」(教文館)

 

使徒行伝の他の聖句を確認してみましょう。

 

使徒行伝
10:44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。
10:45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも
聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。

 

「内容の属格」だからといって、聖霊=賜物→聖霊は非人格的な存在、且つ、神の第三位格にならないという主張に根拠は無いのです。何故なら、ルカは聖霊がくだった」ことが聖霊という無償の賜物」として対応させているからです。

 

使徒行伝
11:17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。

 

ここでも聖霊「主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物」と明記しています。聖霊はキリストを信じた故の無償の賜物であり、聖霊の賜物はその結果であることを厳密に区別して読まなければなりません。

 

ヨハネ福音書
4:10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。

 

ヨハネ「神の賜物」と述べており、主は永遠の命を与える御方としてサマリヤ人の女性に聖霊を伝えています。

 

以上、或る方々にとっては無味乾燥な内容だったかもしれません。他方、僅かでもキリストを聖霊によって信じることの奇跡をニュアンスとして感じ取って下されば嬉しいです。

 

ユダ書
1:20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、
1:21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

キリストの十字架の死から復活への〝突破〟

キリスト教会では毎週、日曜日をそれ以外の平日と区別して「主日」と呼んで礼拝日としています。プロテスタント諸教派は「主日礼拝」「主日公同礼拝」「主日聖餐式」等、呼称は殆ど変わりません。

若干、言葉が違うのは礼拝の何を強調するかによりますが「主日」、即ち、主イエス・キリストが復活したという「週の初めの日」(日曜日)の礼拝が教会で重視されて続けたことはいつの時代でも同じでした。

 

さて、初期教父の殉教者ユスティノス(紀元100年頃〜165年頃)は『第一弁明』で次のように古代教会の礼拝に関して書いています。

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太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごとの住民すべてが一つ所に集い、使徒達の回想録か予言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。

朗読者がそれを終えると、指導者が、これらの善き教えにならうべく警告と勧めの言葉を語るのです。

それから私共は一同起立し、祈りを捧げます。そしてこの祈りがすむと前述のように、パンとぶどう酒と水とが運ばれ、指導者は同じく力の限り祈りと感謝を献げるのです。これにたいし会衆はアーメンと言って唱和し、一人一人が感謝された食物の分配をうけ、これに与ります。また欠席者には、執事の手で届けられるのです。

キリスト教教父著作集 1 ユスティノス』(教文館、85頁)

 

キリスト教会の礼拝は当時、第一に主日、即ち日曜日に守られ、第二に時間の制限は無しに使徒の書簡と預言者の書が朗読者によって朗読されたこと、第三に指導者が聖書に基づき神の言葉を説教したこと、そして第四に聖餐式が執行されていました。

「時間のゆるす限り」とは「聖書日課の長さがまだ確定していなかった状況を指す」と言われることもありますが、主日礼拝にキリスト者たちは徹底的に説教と聖餐式を中心にして時を過ごしたと思われます。

 

使徒行伝
20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
20:8 わたしたちが集まっていた屋上の間には、あかりがたくさんともしてあった。
20:9 ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話がながながと続くので、ひどく眠けがさしてきて、とうとうぐっすり寝入ってしまい、三階から下に落ちた。抱き起してみたら、もう死んでいた。
20:10 そこでパウロは降りてきて、若者の上に身をかがめ、彼を抱きあげて、「騒ぐことはない。まだ命がある」と言った。
20:11 そして、また上がって行って、パンをさいて食べてから、明けがたまで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した。
20:12 人々は生きかえった若者を連れかえり、ひとかたならず慰められた。

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ヨハネ福音書

20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。

 

キリストは確かに十字架刑に処せられて死んだというのは事実なのですが、神はキリストを復活させることでただの事実を突破し、神の真実を私たちに明らかにして下さったのです。

 

使徒行伝
2:32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
2:36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

 

世の現実、及び、罪の事実に私たちは覆いを被せられていると言っても過言ではありません。そのような事実を福音で語るとしたら、東方正教会聖公会のような「古典的相互補完理論」(聖書の権威、信条、按手による使徒的監督職の権威)に基づく伝統理解の主要聖句に辿り着きます。

 

第一コリント書

15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 

 

「伝えた」「受けた」というのは伝承とか口伝のことです。使徒パウロは福音の事実として「何よりも最初に」キリストが死んだこと、葬られたこと、甦らされたこと(受け身として直訳した委員会訳は皆無)、使徒たちに顕現したことを列挙しています。ですからこの箇所は〝伝統と聖書の権威〟の関係を扱っていると言えます。

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神の福音の事実が語られる時、基本的な福音の中身を受け取れば良いのですが、キリストの死と復活は聖書に基づき、キリストの顕現は出会いの体験に開かれていることが理解できます。このような基本的な福音を信じていくならば、キリストの十字架の死の意味は「客観的な事実」を突破して、神がキリストと共に古い私を死に絶えさせ、キリストと共に新しい私として復活させられたという「霊的な真実」を突きつけるのです。

 

ローマ書
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。

6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

 

だから主日礼拝に私たちは神を礼拝するために集まるのですが、何よりも最初に「キリストは私の罪のために十字架で身代わりに死んで下さった」という神の愛を信じるように招かれているのです。しかしながら、キリストの十字架の死の意味に対する理解が深まっていくと俄然、キリストが神に復活させられたという衝撃的な視点からの福音理解へと導かれることでしょう。キリストの十字架の死は罪に対する自分自身への死刑宣告ですが、キリストの復活は神に対して新しく生きる自分自身への決定的な変革なのです。

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神を礼拝することは、神が息を吹き込まれた言葉に触れて永遠の命に満たされるという〝突破〟だと言えます。キリストの十字架の死を告げ知らせるのは死者たちでなく、キリストを復活させた神に新しく生かされた私たちなのです。

 

マタイの福音書

22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

 

以上のことから、私たちは二つの命題を提起することができます。

①キリストの十字架の死が私の罪の身代わりだという事実を信じる。

②キリストと私という「主観-客観」図式による信仰から、神がキリストを復活させたという真実への〝突破〟に基づいて、キリストのと共なる私はもはや傍観者的な生き方が不可能になってしまう。

 

ガラテヤ書
2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

 

 

 

 

集会の家 domus eccleciae

竪琴音色キリスト教は開拓当初、礼拝区分が説教と聖餐式、そして祝祷に限られていました。キリストの福音を純粋に告げ知らせていきたい、ただそれだけの願いでした。以前、私が所属していたプロテスタントにおける〝福音派〟の教会と違い、賛美も楽器演奏もなく、神の言葉と聖礼典オンリーの礼拝を捧げていたのです。無楽器派の独立教会だったと思い出すことができます。2017年現在、教会の公用聖書新改訳第三版です。聖書の訳は他に新共同訳、口語訳、フランチェスコ会が代表的な委員会訳個人訳よりもお勧めします。今後、新改訳2017(年内刊行)、標準訳(仮)が予定されており、改めて公用聖書をどうするか、教会で検討されることになります。

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初期の頃から、プロテスタント教会として聖書の権威を教会の基礎にしなければならず、説教によって福音が語られ聖礼典が適切に執行されることを柱としてきました。聖書と福音理解、及び、聖礼典である洗礼と聖餐式を固守することで、キリスト教会がそこに存在するか否かが問われるのです。

 

宗教改革者のジャン・カルヴァン(1509年-1564年)は主著『キリスト教綱要』において次のように書いています。

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教会の姿が我々に出現し、また目に見えるようになるのはここからである。なぜなら「二、三人が我が名によって集まる所に、私は彼らのただ中にいる」(マタイ18:20) との約束は欺くことのあり得ないものであって、神の言葉が真摯に 説教されまた聞かれる所、聖礼典がキリストの制定に従って執行されると見られる所、そこに神の教会があることは何ら疑うべきでないからである

渡辺信夫訳『キリスト教綱要 改訳版 第四篇』1・9 新教出版社

 

本質的に教会教会堂のことではありません。キリストを信じて「イエスは主」と告白する者たちが、神の言葉の説教に耳を傾け、洗礼と聖餐式にあずかる集会(εκκλησία)なのです。

 

第一コリント書

12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

 

ですから、教会は時間や場所、建築物等、世俗の事柄によって左右されません。「この曜日と時間帯でなければならない」「教会堂を建築しなければならない」という主義主張の有無はさておき、キリストにおいて神を礼拝する私たちこそ教会なのです。

 

コロサイ書
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

 

キリスト教と言えば綺麗な教会堂があり、礼拝空間とプライベートが区別され(集会と家)、主日礼拝の日曜日の仕事は絶対に休むことを厳守するように注意されたり、或いは自発的な感謝としての献金が強制されることも無きにしも非ず。

私たちはプロテスタントに導かれたキリスト者たち、未信者の方々と関与しながら、教会が信仰者の礼拝のため、徹底的に仕えていくにはどうすれば良いか?と問い続けてきました。

 

①礼拝の曜日、時間帯等は事前連絡があれば変更可能にしたこと。

キリスト者だったとしても所属教会にも通わず、すっかり世俗化して信仰の回復を要する漂流する方々へのフォローをすること。

③古代のキリスト教の礼拝において神への奉献は献金だけでなく、食材や物品、衣服等も含む献品も捧げられていたので、自由な献金と献品の両方、若しくはどちらかを推奨していること。

④地理的距離の問題。竪琴音色キリスト教の礼拝に参加したいけれど、あまりの遠距離の故に参加できない方々のため、VINE AND GRACE MINISTRYという教会のネットワーク機能(FaceTime、LINE、Skype等)を視聴覚的ツールとして使っていること。但し、洗礼式の場合、国内なら何処にでも行き、望まれるならば私が執行します

聖餐式は毎週、主日礼拝の度に執行していること。

⑥宗教的な肩書きや、それに類した制度・組織に代えて、キリスト教的人間観に基づく司牧的配慮と、神の愛に満たされた霊的な家族(οικος)の構築を最優先していきます。

⑦これらの実現のため、キリストに対する信仰で一致して互いに愛し合うこと、聖書は神の息が吹き込まれた言葉であり、キリストのすべてを支配する権威(εξουσία)が与えられた証言だと認めること、

 

第二テモテ書

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 

「霊感」「θεόπνευστος」で「神の息が吹き込まれた」という、聖書を読む者に命を与える積極的な意味です。聖書は「神の誤りなき言葉」だと強調したい時、以下の聖句の方が的を射ていると言われます。

 

第二ペテロ書
1:20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

 

加えて、キリスト教の教理教育を継続的に受け続けるならば、キリストに対する信仰を更に深めて互いに愛し合い、断固として異端を退ける、──それこそが教会の本質を示す基準です。

 

カルヴァンは教会に関して引き続き、以下のように述べています。

 

教会を識別する旗印は、御言葉の説教および聖礼典の遵守であると述べた。この二つは実を結ばずにはおかず、神の祝福によって栄えるからである。私の言うのは、御言葉が宣ぺ伝えられる所ではどこでも忽ちに実が生じる、ということで はなく、これが受け入れられ確乎たる地位を得た所では効力を発揮せずにおかない、という意味である。

渡辺信夫訳『キリスト教綱要 改訳版 第四篇』1・10 新教出版社

 

神の言葉の力に満たされる教会の条件は説教と聖礼典の執行であって、他に何か特別の条件が課せられることもないしその必要もありません。プロテスタントは聖書と伝統を同格にしませんが、聖書解釈の伝統に教会が支配されてしまう可能性を否定できません。反対に、聖書解釈の伝統に抗うために牧師中心主義となることもあり得ます。私たちは教会によって聖書を解釈するのでなく、聖書によって教会が改革されることを知らなければなりません。

 

冒頭、説教と聖礼典の執行、祝祷だけだった竪琴音色キリスト教は、帰国子女の教会員が集まった時は英語の賛美を、ペンテコステ派教会出身の教会員が集まった時はワーシップを、極端に苦しい問題を抱えた方々が集まると主日礼拝の他に平日の学びと交わりを重視しました。

 

キリストの権威を聖書、特にマタイの福音書から確認していきます。
①いっさいの権威
マタイの福音書
28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

「いっさいの権威」は「πασα εξουσια」(パサ エクスーシア)で「すべてを支配する権威」を意味しています。

 

②教えの権威
マタイの福音書
7:28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

「律法学者たちのように」とは旧約聖書の解釈法やラビの諸伝承に精通し、宗教上の諸問題を決定する者たちのように、ということです。

しかし主はそれらの聖書解釈の伝統や使徒継承に対して「しかし、わたしはあなたがたに言う」(5:22、28、32、34、39、44、6:29→7回の定型文)という宣言を対置しています。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」 (5:17)と宣言することができたのです。

 

③罪を赦す権威
マタイの福音書
9:6 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。

主は中風の人の罪を赦しましたが、この「罪」は複数形で「諸々の罪」のことです。諸々の罪の生産工場である「原罪」「単数形の罪」はキリストの十字架の死に至るまで待たなければなりません。

 

④悪霊を追い出す権威
マタイの福音書
10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。

すべての病気が悪霊から生じるわけではないですが、罪の結果として私たちに死が導入されたのは事実であり、「あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす」ことは悪霊に罪を利用されることと、罪の悪い結果からの解放と癒しです。

 

このように「いっさいの権威」とは「教えの権威」「罪を赦す権威」「悪霊を追放する権威」を中身として「神の権威」を意味しています。キリストの十字架は神の教え、罪の完全な赦し、敵を退けるものなのです。

 

そして教会には神の権威を持つキリストが与えられています。

エペソ書
1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

 

神の息が吹き込まれた聖書によって教会は霊的に改革されていきますが、キリストの権威を聖書は証言しているからこそ、神の民としての私たちは神の国に至る旅路を聖霊に導かれていくのです。

 

現在、私たちは賛美・聖言・聖餐の区分を変更し聖公会祈祷書』に準拠した、伝統的な礼拝に回帰する過渡期の中にいます。説教では各種邦訳に加えて何冊かの英語訳を参照していた段階から、不思議な導きでギリシャ語初歩の手ほどきを受ける機会があり、七十人訳ギリシャ語聖書(LXX)を旧約聖書の釈義に使うようになりました。キリスト教神学もプロテスタントの文献だけでなく、カトリシズムの文献も紐解くようになり、エキュメニカルな神学研究所で学ぶこともしました。

 

ヨハネ福音書
2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

 

キリストを礼拝する集会はエルサレム神殿からの追放後、それぞれの家(οίκος)で神を礼拝することになりました。家々の中で特に多くの人々を集まれる大きな家は「集会の家」(domus ecclesiae)と呼ばれていました(J.A.ユングマン著『古代キリスト教典礼史』平凡社)。キリスト教会の本質は建築物でなく神の家族なのです。

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ヘブル書
13:10 わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。
13:11 なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。
13:12 だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。
13:13 したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。

 

聖なる道

キリスト教において様々な教派が存在しますが〝主要な系譜〟区分は以下の二種類です。

西方教会(ラテン教会)

ローマ・カトリック教会プロテスタント諸教派

東方正教会(オーソドックス)

正教会

 

キリスト教会の歴史的な変遷〓

11世紀に東西両教会による相互破門の大分裂が起きたと言われます。和解への努力が試みられていますが、2017年現在、「共同陪餐」は実現していません。分裂理由は〝ローマ教皇の首位権〟や〝フィリオクエ論争〟等、多岐に渡ります。

16世紀には宗教改革が起き、西方教会ローマ・カトリック教会プロテスタント諸教派に分裂します。洗礼の相互承認、義認に関する共同宣言等が出されていますが2017年現在、共同陪餐は実現していません。分裂理由は信仰義認、聖書翻訳、恩寵理解、サクラメント、聖人崇敬等、広範囲に渡っています。
宗教改革の第一世代はマルティン・ルター、第二世代はジャン・カルヴァンですが、その後、プロテスタント正統主義の時代が続くことになります。

同じ16世紀にローマ・カトリック教会聖公会が政治的理由で分裂しました。

18世紀には聖公会からジョン・ウェスレーのメソジスト運動が展開され〝聖化〟が強調されることになります。プロテスタント」(抵抗者)という言葉は宗教改革者たちへの誹謗中傷だったのですが、宗教改革者の諸教会はそのままプロテスタントを名乗りました。同じように、ウェスレーたちも最初、「メソジスト」(規則主義者)と揶揄されましたが、あえてメソジストを名乗ります。

20-21世紀にかけてペンテコステ運動、カリスマティック・ムーブメント、エキュメニカル運動(教会一致運動)、第二バチカン公会議(1962-1965年)など、教会は激動の時代を迎えます。

 

第一ペテロ書
1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、
1:2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

 

私たちは地上における見える諸教会に派遣されています。それらは他宗教における宗派でなく教派と言われるように、キリスト教会に宗派は存在しません。確かに、ローマ・カトリック教会プロテスタント諸教派、東方正教会に区分されますが、それらは三位一体の神の教会なのであり唯一の教会なのです。伝統的な違いはありますが、基本的に同じ聖書を用いており、キリストに対する信仰は同一なのです。天における見えない教会、──即ち、到来する神の国において霊的一致を保っています。地上における諸教会を人間的に理解するならば単なる宗教的な《分裂》に見えますが、キリストを信じる信仰における聖霊による一致》を再確認していきたいものです。

 

エペソ書
4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。

 

キリスト教会の本質〓

キリスト教会は信仰の告白共同体と言われることがありますが、同時に以下の三重の意味を含んでいます。

 

①キリストの体なる教会

「キリストの体」とは抽象的な神学的・哲学的な概念であることを否定します。キリストは十字架で処刑されることで私たちのすべての、過去・現在・未来に至る罪の支配から神の愛の支配へと移して下さった御方です。この「キリストの体」は、或る神学者によると「キリストの伝統体」とも言われていますが、既述の教会における三つの区分はただのキリスト教教理の対立なのでなくて、キリスト教会の教派的な生命の豊かさを示しています。

ローマ・カトリック教会西方教会歴史的そのものでありミサを中心に礼拝を捧げます。プロテスタント諸教派は聖書に基づいた信仰と告白による救済を強調します。東方正教会神化(神の性質にあずかること)聖画像を大切にしています。

非常に簡略化して言うと、キリストを信じて公に告白することで私たちはキリスト者になります。

 

ローマ書
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

 

キリストの体なる教会へと神秘的に一致させられることの「映し出し」(K.バルト)こそ洗礼であり、キリストの十字架の死と共に古い自分に死に絶え、キリストの復活と共に生かされることの「継続性」聖餐式に結合しています。「キリストの体」と教会が主張される時、私たちは互いに交換不可能な存在だと理解して、神に愛された故に、互いが互いの存在の意味を、好き嫌いを超越して徹底的に肯定することが強調されているのです。

 

第一コリント書

12:26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

 

②キリストの花嫁なる教会

あえてキリスト教会の詳細な教団教派、及び、神学的な差異に関しては沈黙を守りましたが、教会の第二の定義として「キリストの花嫁」があります。

 

ヨハネの黙示録
19:6 わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
19:9 それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。

 

神はキリストを信じる者を永遠の愛で愛し尽くして下さっています。主だけを信じることは主に愛された故なのですが、神の愛はどのような愛なのでしょうか?キリストが神を信頼して愛したという福音書の記述に対して、自分自身の中を見ると絶望しか無いことに愕然することでしょう。私たち、というよりも、私の中には罪しか存在していないという残酷な現実。

 

ローマ書

7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
7:14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

 

キリスト教会において「罪がわからないのはキリストの十字架がわからないからだ」と言われますが、同時に「神の絶対的な恩寵を味わうこと抜きに、神の愛に満たされるに至るまでは信じることは不可能だ」とも言えるでしょう。キリストの花嫁なる教会こそ、神がキリストの十字架に示された愛を明らかにして下さった場なのです。

 

キリストは花嫁なる私たちを愛しています。だからこそ、キリストという夫に妻なる私たちは自発的に喜んで服従できるのです。神に私が愛されている、キリストの花嫁扱いされている私たちなのだから、すべての何もかもがキリストから引き離すことは不可能なのです。

 

ローマ書
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

 

キリストの愛は弱い者、見下されている者、罪人、無に等しい者たちを包み込んで平安を与えて下さいます。だから自己卑下をして神の恵みを無駄に受ける必要もない、キリスト教という宗教心を無意味に誇ることも不要です。

例えば、或るキリスト教のユース・キャンプに私が参加した時、司会者がセミナー中に「あなたの最も尊敬する信仰者は誰ですか?」と無垢に質問しました。皆、歴史上の偉大な信仰者や、現在の恩師的な牧師だとかを答えていましたが、或る神学生が自信満々に「私はキリストしか尊敬していません!」と断言したのです。司会者はそんなことは「当然」なのを前提に質問したのですから狼狽していました。パウロもコリントの諸教会の分裂分派には手を焼きましたが、最も警戒した派閥は何だったのでしょうか。

 

第一コリント書
1:10 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。
1:11 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。
1:12 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。
1:13 キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。

 

聖書学者たちはパウロが「キリスト派」(わたしはキリストに)に最大限の警戒をしていた点を指摘しています。キリストを派閥にするとはどのような意味でしょうか?冒頭、キリスト教会を三つに区分しましたが、それらの教会のどれかに所属する私たちが「我こそ正統信仰の教会であり、他の二つの教会は教会ではない」と断言してしまうことです。所属教会の内部における強い確信は持つべきですが、そのような確信を他教会とその教会員に強制的に押し付けてしまうと問題が生じます。しかしながら、言うまでもなく当然、キリスト者同士で主張したり、意見を交換すること、対立のための対立でなく一致のための討論は聖霊による友情の中で有益となります。

 

エペソ書
5:21 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。
5:22 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
5:24 そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
5:28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
5:29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。

 

キリストから愛された故に私たちは彼に従うのであって、絶対にその逆ではありません。キリストの愛の故の服従は花嫁なる教会の積極的な応答であって、キリストの愛を受けるための条件ではないのです。ところが私たちは神に無条件に愛されたのに他者に対して条件付きの愛で振舞うことの罪深さを自覚できていません。誤解されたくないのですが、条件付きの愛しかない、取引的な宗教心しか無いから「私は駄目だ」と自分自身を責め続けることは聖霊を悲しませることになります。

 

第一ヨハネ
3:18 子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。
3:19 それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。
3:20 なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。

 

まさしく私たちは自分自身を裁くことさえしません。何故なら私を裁くのはキリストを犠牲にしてまで愛して下さった天の父なる神だからです。あなたの存在自体に意味がある、というのはキリストの花嫁だから。人間の花婿でさえ花嫁のためなら何でもしたいと望むはずでしょう。

 

 ③祈りの家としての教会

主は神殿の中のユダヤ教の捧げ物を販売していた商人を追い出して、暴れに暴れました。

 

マタイの福音書
21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

 

教会は「祈りの家」なのです。主は二人が心を共に響かせるなら(直訳)、三人が御名によって集まって祈るならば「わたしもその中にいる」と約束されました。所謂、教会の「鍵の権能」の文脈で語られているので教会の基礎だと理解して無理はないと思われます。「祈りの家」でないような教会は存在し得ないからです。

 

マタイの福音書

18:19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

 

ですから地方の教会の実態を調べると5人前後、若しくはそれ以下の教会員数しか集まらない教会は圧倒的に多いですし(統計的な水増しをしても)、それ以前に無牧教会(牧師不在)も増える一方です。或る先進国のキリスト教統計機関によれば特定地域に大規模教会が誕生すると、地域の他教会の教会員数が激減して、相対的に地域のキリスト者人口も減るというパターンが確認されています。教会は人数ではありません。ましてや年齢別構成比でもなく「祈りの家」なのか否かが問われているだけなのです。

 

④神の家族なる教会

地上には機能不全家族が数多く存在します。私たちもそのような家庭環境に育ち、愛情不足によって人間不信になったり、神にしか埋めることの不可能な空虚さを快楽、富、刺激的な遊戯、不適切な人間関係、何らかの病的な依存等によって誤魔化そうとするのですが、不幸なことに空虚さを埋める約束が果たされることはありません。聖書は「家族の回復」を教会によって実現したと宣言し励ましてくれます。

 

エペソ書

2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

 

上記の聖句の「家族」ギリシャ語の「οίκος」(オイコス)の複数形が使われており「神の諸々の家族」という意味になります。天における栄光の教会は唯一ですが、神は私たちの間に幕屋(テント)を張って住んだ御方です。

 

ヨハネ福音書

1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

 

それも地上の何らかの唯一の教会に住まわれたのでなく、諸々の教会に臨在しておられるのです。キリストの十字架と復活の愛が福音として語られて、主の御自身で制定された聖礼典(カトリックでは秘跡東方正教会では機密)が適切に執行されるならば、そこに主の教会が築かれているのです。

 

〓聖なる道〓 

ヨハネ福音書

10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

 

主の御名を慕い求めるならば、神はその人を決して見捨てることはありません。何処の教会に導かれるのか不安に思うことがあるかもしれません。コミュ障の自分なんかが教会生活に慣れるだろうか?上手に祈れないし…とか、他にも心配の種は尽きません。でも大丈夫、私も最初そうでしたし、他教派の礼拝に参加すると迷子になったり、礼拝進行がわからず案内の方がいないとただの挙動不審になります。人間的には至極当然の感情だと思いますが、もう一つの事柄を付け加える必要があるかもしれません。

 

第一コリント書
6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

 

 

聖霊の宮」「宮」は「ναος」(ナオス)で「神殿」「神が臨在する聖所と至聖所」を意味しています。それらを踏まえた上で主は建築物としての教会堂以前に、私たち一人ひとりを「聖霊の神殿」として、──即ち、神の臨在する場として造られたのでした。神を礼拝することにおいて〝教会〟という「共同体的次元」と区別して、諸個人が聖霊の神殿」だということが「主体的次元」を意味しているのです。

 

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ですから私たちは、キリストにあって自分自身の体に基づく天国に至る旅路を、共に歩む信仰の仲間に助けられ励まされながら、憩いと安らぎの中で導かれていきましょう。

 

イザヤ書

35:1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
35:2 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
35:3 あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
35:4 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
35:5 その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。
35:6 その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。
35:7 焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。
35:8 そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
35:9 そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
35:10 主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。