シンフォニーチャペルの栞

私たちはプロテスタント(福音主義)のキリスト教会です。主日礼拝(日曜日10時30分〜)、水曜日(聖研祈祷会)。当教会はエホバの証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教、その他新興宗教団体とは一切関係ありません。

聖なる道

キリスト教において様々な教派が存在しますが〝主要な系譜〟区分は以下の二種類です。

西方教会(ラテン教会)

ローマ・カトリック教会プロテスタント諸教派

東方正教会(オーソドックス)

正教会

 

キリスト教会の歴史的な変遷〓

11世紀に東西両教会による相互破門の大分裂が起きたと言われます。和解への努力が試みられていますが、2017年現在、「共同陪餐」は実現していません。分裂理由は〝ローマ教皇の首位権〟や〝フィリオクエ論争〟等、多岐に渡ります。

16世紀には宗教改革が起き、西方教会ローマ・カトリック教会プロテスタント諸教派に分裂します。洗礼の相互承認、義認に関する共同宣言等が出されていますが2017年現在、共同陪餐は実現していません。分裂理由は信仰義認、聖書翻訳、恩寵理解、サクラメント、聖人崇敬等、広範囲に渡っています。
宗教改革の第一世代はマルティン・ルター、第二世代はジャン・カルヴァンですが、その後、プロテスタント正統主義の時代が続くことになります。

同じ16世紀にローマ・カトリック教会聖公会が政治的理由で分裂しました。

18世紀には聖公会からジョン・ウェスレーのメソジスト運動が展開され〝聖化〟が強調されることになります。プロテスタント」(抵抗者)という言葉は宗教改革者たちへの誹謗中傷だったのですが、宗教改革者の諸教会はそのままプロテスタントを名乗りました。同じように、ウェスレーたちも最初、「メソジスト」(規則主義者)と揶揄されましたが、あえてメソジストを名乗ります。

20-21世紀にかけてペンテコステ運動、カリスマティック・ムーブメント、エキュメニカル運動(教会一致運動)、第二バチカン公会議(1962-1965年)など、教会は激動の時代を迎えます。

 

第一ペテロ書
1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、
1:2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

 

私たちは地上における見える諸教会に派遣されています。それらは他宗教における宗派でなく教派と言われるように、キリスト教会に宗派は存在しません。確かに、ローマ・カトリック教会プロテスタント諸教派、東方正教会に区分されますが、それらは三位一体の神の教会なのであり唯一の教会なのです。伝統的な違いはありますが、基本的に同じ聖書を用いており、キリストに対する信仰は同一なのです。天における見えない教会、──即ち、到来する神の国において霊的一致を保っています。地上における諸教会を人間的に理解するならば単なる宗教的な《分裂》に見えますが、キリストを信じる信仰における聖霊による一致》を再確認していきたいものです。

 

エペソ書
4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。

 

キリスト教会の本質〓

キリスト教会は信仰の告白共同体と言われることがありますが、同時に以下の三重の意味を含んでいます。

 

①キリストの体なる教会

「キリストの体」とは抽象的な神学的・哲学的な概念であることを否定します。キリストは十字架で処刑されることで私たちのすべての、過去・現在・未来に至る罪の支配から神の愛の支配へと移して下さった御方です。この「キリストの体」は、或る神学者によると「キリストの伝統体」とも言われていますが、既述の教会における三つの区分はただのキリスト教教理の対立なのでなくて、キリスト教会の教派的な生命の豊かさを示しています。

ローマ・カトリック教会西方教会歴史的そのものでありミサを中心に礼拝を捧げます。プロテスタント諸教派は聖書に基づいた信仰と告白による救済を強調します。東方正教会神化(神の性質にあずかること)聖画像を大切にしています。

非常に簡略化して言うと、キリストを信じて公に告白することで私たちはキリスト者になります。

 

ローマ書
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

 

キリストの体なる教会へと神秘的に一致させられることの「映し出し」(K.バルト)こそ洗礼であり、キリストの十字架の死と共に古い自分に死に絶え、キリストの復活と共に生かされることの「継続性」聖餐式に結合しています。「キリストの体」と教会が主張される時、私たちは互いに交換不可能な存在だと理解して、神に愛された故に、互いが互いの存在の意味を、好き嫌いを超越して徹底的に肯定することが強調されているのです。

 

第一コリント書

12:26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

 

②キリストの花嫁なる教会

あえてキリスト教会の詳細な教団教派、及び、神学的な差異に関しては沈黙を守りましたが、教会の第二の定義として「キリストの花嫁」があります。

 

ヨハネの黙示録
19:6 わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
19:9 それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。

 

神はキリストを信じる者を永遠の愛で愛し尽くして下さっています。主だけを信じることは主に愛された故なのですが、神の愛はどのような愛なのでしょうか?キリストが神を信頼して愛したという福音書の記述に対して、自分自身の中を見ると絶望しか無いことに愕然することでしょう。私たち、というよりも、私の中には罪しか存在していないという残酷な現実。

 

ローマ書

7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
7:14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

 

キリスト教会において「罪がわからないのはキリストの十字架がわからないからだ」と言われますが、同時に「神の絶対的な恩寵を味わうこと抜きに、神の愛に満たされるに至るまでは信じることは不可能だ」とも言えるでしょう。キリストの花嫁なる教会こそ、神がキリストの十字架に示された愛を明らかにして下さった場なのです。

 

キリストは花嫁なる私たちを愛しています。だからこそ、キリストという夫に妻なる私たちは自発的に喜んで服従できるのです。神に私が愛されている、キリストの花嫁扱いされている私たちなのだから、すべての何もかもがキリストから引き離すことは不可能なのです。

 

ローマ書
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

 

キリストの愛は弱い者、見下されている者、罪人、無に等しい者たちを包み込んで平安を与えて下さいます。だから自己卑下をして神の恵みを無駄に受ける必要もない、キリスト教という宗教心を無意味に誇ることも不要です。

例えば、或るキリスト教のユース・キャンプに私が参加した時、司会者がセミナー中に「あなたの最も尊敬する信仰者は誰ですか?」と無垢に質問しました。皆、歴史上の偉大な信仰者や、現在の恩師的な牧師だとかを答えていましたが、或る神学生が自信満々に「私はキリストしか尊敬していません!」と断言したのです。司会者はそんなことは「当然」なのを前提に質問したのですから狼狽していました。パウロもコリントの諸教会の分裂分派には手を焼きましたが、最も警戒した派閥は何だったのでしょうか。

 

第一コリント書
1:10 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。
1:11 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。
1:12 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。
1:13 キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。

 

聖書学者たちはパウロが「キリスト派」(わたしはキリストに)に最大限の警戒をしていた点を指摘しています。キリストを派閥にするとはどのような意味でしょうか?冒頭、キリスト教会を三つに区分しましたが、それらの教会のどれかに所属する私たちが「我こそ正統信仰の教会であり、他の二つの教会は教会ではない」と断言してしまうことです。所属教会の内部における強い確信は持つべきですが、そのような確信を他教会とその教会員に強制的に押し付けてしまうと問題が生じます。しかしながら、言うまでもなく当然、キリスト者同士で主張したり、意見を交換すること、対立のための対立でなく一致のための討論は聖霊による友情の中で有益となります。

 

エペソ書
5:21 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。
5:22 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
5:24 そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
5:28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
5:29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。

 

キリストから愛された故に私たちは彼に従うのであって、絶対にその逆ではありません。キリストの愛の故の服従は花嫁なる教会の積極的な応答であって、キリストの愛を受けるための条件ではないのです。ところが私たちは神に無条件に愛されたのに他者に対して条件付きの愛で振舞うことの罪深さを自覚できていません。誤解されたくないのですが、条件付きの愛しかない、取引的な宗教心しか無いから「私は駄目だ」と自分自身を責め続けることは聖霊を悲しませることになります。

 

第一ヨハネ
3:18 子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。
3:19 それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。
3:20 なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。

 

まさしく私たちは自分自身を裁くことさえしません。何故なら私を裁くのはキリストを犠牲にしてまで愛して下さった天の父なる神だからです。あなたの存在自体に意味がある、というのはキリストの花嫁だから。人間の花婿でさえ花嫁のためなら何でもしたいと望むはずでしょう。

 

 ③祈りの家としての教会

主は神殿の中のユダヤ教の捧げ物を販売していた商人を追い出して、暴れに暴れました。

 

マタイの福音書
21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

 

教会は「祈りの家」なのです。主は二人が心を共に響かせるなら(直訳)、三人が御名によって集まって祈るならば「わたしもその中にいる」と約束されました。所謂、教会の「鍵の権能」の文脈で語られているので教会の基礎だと理解して無理はないと思われます。「祈りの家」でないような教会は存在し得ないからです。

 

マタイの福音書

18:19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

 

ですから地方の教会の実態を調べると5人前後、若しくはそれ以下の教会員数しか集まらない教会は圧倒的に多いですし(統計的な水増しをしても)、それ以前に無牧教会(牧師不在)も増える一方です。或る先進国のキリスト教統計機関によれば特定地域に大規模教会が誕生すると、地域の他教会の教会員数が激減して、相対的に地域のキリスト者人口も減るというパターンが確認されています。教会は人数ではありません。ましてや年齢別構成比でもなく「祈りの家」なのか否かが問われているだけなのです。

 

④神の家族なる教会

地上には機能不全家族が数多く存在します。私たちもそのような家庭環境に育ち、愛情不足によって人間不信になったり、神にしか埋めることの不可能な空虚さを快楽、富、刺激的な遊戯、不適切な人間関係、何らかの病的な依存等によって誤魔化そうとするのですが、不幸なことに空虚さを埋める約束が果たされることはありません。聖書は「家族の回復」を教会によって実現したと宣言し励ましてくれます。

 

エペソ書

2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

 

上記の聖句の「家族」ギリシャ語の「οίκος」(オイコス)の複数形が使われており「神の諸々の家族」という意味になります。天における栄光の教会は唯一ですが、神は私たちの間に幕屋(テント)を張って住んだ御方です。

 

ヨハネ福音書

1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

 

それも地上の何らかの唯一の教会に住まわれたのでなく、諸々の教会に臨在しておられるのです。キリストの十字架と復活の愛が福音として語られて、主の御自身で制定された聖礼典(カトリックでは秘跡東方正教会では機密)が適切に執行されるならば、そこに主の教会が築かれているのです。

 

〓聖なる道〓 

ヨハネ福音書

10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

 

主の御名を慕い求めるならば、神はその人を決して見捨てることはありません。何処の教会に導かれるのか不安に思うことがあるかもしれません。コミュ障の自分なんかが教会生活に慣れるだろうか?上手に祈れないし…とか、他にも心配の種は尽きません。でも大丈夫、私も最初そうでしたし、他教派の礼拝に参加すると迷子になったり、礼拝進行がわからず案内の方がいないとただの挙動不審になります。人間的には至極当然の感情だと思いますが、もう一つの事柄を付け加える必要があるかもしれません。

 

第一コリント書
6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

 

 

聖霊の宮」「宮」は「ναος」(ナオス)で「神殿」「神が臨在する聖所と至聖所」を意味しています。それらを踏まえた上で主は建築物としての教会堂以前に、私たち一人ひとりを「聖霊の神殿」として、──即ち、神の臨在する場として造られたのでした。神を礼拝することにおいて〝教会〟という「共同体的次元」と区別して、諸個人が聖霊の神殿」だということが「主体的次元」を意味しているのです。

 

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ですから私たちは、キリストにあって自分自身の体に基づく天国に至る旅路を、共に歩む信仰の仲間に助けられ励まされながら、憩いと安らぎの中で導かれていきましょう。

 

イザヤ書

35:1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
35:2 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
35:3 あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
35:4 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
35:5 その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。
35:6 その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。
35:7 焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。
35:8 そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
35:9 そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
35:10 主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。