シンフォニーチャペルの栞

私たちはプロテスタント(福音主義)のキリスト教会です。主日礼拝(日曜日10時30分〜)、水曜日(聖研祈祷会)。当教会はエホバの証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教、その他新興宗教団体とは一切関係ありません。

キリストの十字架の死から復活への〝突破〟

キリスト教会では毎週、日曜日をそれ以外の平日と区別して「主日」と呼んで礼拝日としています。プロテスタント諸教派は「主日礼拝」「主日公同礼拝」「主日聖餐式」等、呼称は殆ど変わりません。

若干、言葉が違うのは礼拝の何を強調するかによりますが「主日」、即ち、主イエス・キリストが復活したという「週の初めの日」(日曜日)の礼拝が教会で重視されて続けたことはいつの時代でも同じでした。

 

さて、初期教父の殉教者ユスティノス(紀元100年頃〜165年頃)は『第一弁明』で次のように古代教会の礼拝に関して書いています。

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太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごとの住民すべてが一つ所に集い、使徒達の回想録か予言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。

朗読者がそれを終えると、指導者が、これらの善き教えにならうべく警告と勧めの言葉を語るのです。

それから私共は一同起立し、祈りを捧げます。そしてこの祈りがすむと前述のように、パンとぶどう酒と水とが運ばれ、指導者は同じく力の限り祈りと感謝を献げるのです。これにたいし会衆はアーメンと言って唱和し、一人一人が感謝された食物の分配をうけ、これに与ります。また欠席者には、執事の手で届けられるのです。

キリスト教教父著作集 1 ユスティノス』(教文館、85頁)

 

キリスト教会の礼拝は当時、第一に主日、即ち日曜日に守られ、第二に時間の制限は無しに使徒の書簡と預言者の書が朗読者によって朗読されたこと、第三に指導者が聖書に基づき神の言葉を説教したこと、そして第四に聖餐式が執行されていました。

「時間のゆるす限り」とは「聖書日課の長さがまだ確定していなかった状況を指す」と言われることもありますが、主日礼拝にキリスト者たちは徹底的に説教と聖餐式を中心にして時を過ごしたと思われます。

 

使徒行伝
20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
20:8 わたしたちが集まっていた屋上の間には、あかりがたくさんともしてあった。
20:9 ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話がながながと続くので、ひどく眠けがさしてきて、とうとうぐっすり寝入ってしまい、三階から下に落ちた。抱き起してみたら、もう死んでいた。
20:10 そこでパウロは降りてきて、若者の上に身をかがめ、彼を抱きあげて、「騒ぐことはない。まだ命がある」と言った。
20:11 そして、また上がって行って、パンをさいて食べてから、明けがたまで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した。
20:12 人々は生きかえった若者を連れかえり、ひとかたならず慰められた。

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ヨハネ福音書

20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。

 

キリストは確かに十字架刑に処せられて死んだというのは事実なのですが、神はキリストを復活させることでただの事実を突破し、神の真実を私たちに明らかにして下さったのです。

 

使徒行伝
2:32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
2:36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

 

世の現実、及び、罪の事実に私たちは覆いを被せられていると言っても過言ではありません。そのような事実を福音で語るとしたら、東方正教会聖公会のような「古典的相互補完理論」(聖書の権威、信条、按手による使徒的監督職の権威)に基づく伝統理解の主要聖句に辿り着きます。

 

第一コリント書

15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 

 

「伝えた」「受けた」というのは伝承とか口伝のことです。使徒パウロは福音の事実として「何よりも最初に」キリストが死んだこと、葬られたこと、甦らされたこと(受け身として直訳した委員会訳は皆無)、使徒たちに顕現したことを列挙しています。ですからこの箇所は〝伝統と聖書の権威〟の関係を扱っていると言えます。

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神の福音の事実が語られる時、基本的な福音の中身を受け取れば良いのですが、キリストの死と復活は聖書に基づき、キリストの顕現は出会いの体験に開かれていることが理解できます。このような基本的な福音を信じていくならば、キリストの十字架の死の意味は「客観的な事実」を突破して、神がキリストと共に古い私を死に絶えさせ、キリストと共に新しい私として復活させられたという「霊的な真実」を突きつけるのです。

 

ローマ書
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。

6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

 

だから主日礼拝に私たちは神を礼拝するために集まるのですが、何よりも最初に「キリストは私の罪のために十字架で身代わりに死んで下さった」という神の愛を信じるように招かれているのです。しかしながら、キリストの十字架の死の意味に対する理解が深まっていくと俄然、キリストが神に復活させられたという衝撃的な視点からの福音理解へと導かれることでしょう。キリストの十字架の死は罪に対する自分自身への死刑宣告ですが、キリストの復活は神に対して新しく生きる自分自身への決定的な変革なのです。

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神を礼拝することは、神が息を吹き込まれた言葉に触れて永遠の命に満たされるという〝突破〟だと言えます。キリストの十字架の死を告げ知らせるのは死者たちでなく、キリストを復活させた神に新しく生かされた私たちなのです。

 

マタイの福音書

22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

 

以上のことから、私たちは二つの命題を提起することができます。

①キリストの十字架の死が私の罪の身代わりだという事実を信じる。

②キリストと私という「主観-客観」図式による信仰から、神がキリストを復活させたという真実への〝突破〟に基づいて、キリストのと共なる私はもはや傍観者的な生き方が不可能になってしまう。

 

ガラテヤ書
2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。