シンフォニーチャペルの栞

私たちはプロテスタント(福音主義)のキリスト教会です。主日礼拝(日曜日10時30分〜)、水曜日(聖研祈祷会)。当教会はエホバの証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教、その他新興宗教団体とは一切関係ありません。

キリストにおける神の愛から引き離す者は誰か〜宗教改革500年を控えて〜

本年は宗教改革500年記念ですが、マルティン・ルターの神学が改めて注目されています。宗教改革(Reformation)によって、カトリックからプロテスタント諸教派が誕生しましたが、それらの教会の特徴は聖書の権威の強調、信仰義認による救い、信徒の普遍的祭司性、神の主権的な恵み等を強調しています。

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しばしば巷で「カトリックプロテスタントの違いって何?」という質問がありますが、むしろ西方教会と同じ伝統と系譜に結ばれていることに注目したいものです。両教会は三位一体、キリストが完全な神であり完全な人間だったにも関わらず両性が一致する位格的統合(ένωσις καθ ὑπόστασιν)、キリストに対する信仰で罪から救われるという本質的教義を共有しているからです。

 

さて、プロテスタント諸教派の数は多いのですが行為義認に対して、程度の差はあれども信仰義認を対置させている点は共通しています。

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あなたがすべての戒めを充たし、戒めが矯正し要求しているとおりに、悪い欲望と罪から解放されたいと願うのならば、さあ、キリストを信じなさい。キリストにおいて私はあなたにすべての恵みと義と平安とを約束する。あなたが信じるなら、これを得るし、信じないなら、得ない。数多くありながら、なんの役にも立たない戒めの(要求する)すべての行いをもってしてもあなたにできなかったことが、信仰によって、たやすく簡単に充たされるようになる。なぜなら、私は簡単にすべてのものを信仰の中に置いたからである。信仰を持つものはすべてのもの得、救われるが、信仰持たない者はなにも得ない。

マルティン・ルター著『キリスト者の自由 訳と注解』(教文館) 23頁

 

私たちの教会では聖公会祈祷書』に準拠して、主日聖餐式の際、「聖餐準備の式」における聖書箇所を朗読していますが下記の通りです。

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十戒と山上の祝福を結び合わせ完成させたのは律法でなく福音でした。私たちは旧約聖書が戒めと律法で、新約聖書が福音だと考える、そのような書物的分類をする傾向があるかもしれません。

しかしながら、聖書全体から私たちは古い契約から新しい契約への移行を教えられていかなければ、新約聖書のすべの命令、──特に「互いに愛し合いなさい」という隣人愛でさえ、旧約聖書に匹敵する新しい戒めと律法になってしまいます。マタイの福音書5-7章の山上の説教を直接的に自分自身の適用とするならば人間には不可能な教えだと悟り、打ち倒されること間違いなしでしょう。

 

ヘブル書
7:18 このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、
7:19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。

 

即ち、律法はただ命令を守る行為義認とは別次元であって、キリストによって私たちは「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」(マタイの福音書5:2:)と改めて教えられる必要があるのです。

では一体、「律法学者やパリサイ人の義」よりもまさるためにはどうすれば良いのでしょうか。

当時のユダヤ教エルサレム神殿、大祭司を頂点とする階層的な祭司制度、ラビが主導する会堂(συναγωγή)の安息日礼拝、旧約聖書研究とその朗読、戒めと律法の遵守、ユダヤ教への改宗を目的とした異教徒への伝道は世界宣教に至るまで広がっていました。

それらの律法の義にも関わらず、主は強烈な言葉をユダヤ人たちに浴びせました。

 

マタイの福音書

23:13 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。

23:15 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

23:23 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

 

キリストに対する信仰は戒めと律法に破れ果てた私たちに神の主権的な恵みを与えます。

①過去・現在・未来に渡る罪の赦し(ヘブル書7:24-25参照)

②律法の呪いからの解放(ガラテヤ書3:13参照)

③キリストにある自由を味わう(ガラテヤ書5:1参照)

「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか」(ローマ書6:15)という逸脱に対して「断じてそうではない」と宣言できる

⑤キリストを信じる者は罪に定められず、聖霊の導きに服従することで私たちの中に律法の要求が実現していく(ローマ書8:1-4参照)

⑥他方、キリスト者も罪を犯してしまうことは回避できないため、キリストに弁護して下さる恵みの故に罪の悔い改めが伴う(第一ヨハネ書2:1参照)

 

こうしてキリストを信じる以前の罪は完全に赦されることを誰もが信じているはずです。もちろん、現在と未来の罪も赦されました。異端者でない限り、キリストに対する信仰に基づく救いを疑う者は私たちの中に存在しません。

 

ローマ書

 7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

 

だから聖書を古い契約のまま読んではならない、──というよりも、自分自身の渾身の力と頑張りにより、窮屈な律法の下で死んだように歩む必要はなくなったのです。戒めと律法など守らなくても良い、好きに生きれば良いという無律法主義(Antinomianism)ではありません。

 

使徒パウロは次のように反論しています。

 

ローマ書

6:1 では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
6:2 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。

 

キリストに対する信仰は徹頭徹尾、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」(ローマ書1:17)という道。「信仰のみならば善行は不要なのか」という疑問は罪からの救い聖化が曖昧模糊になっている証拠です。何度言っても言い足りない事柄ですが、キリストが私たちを救うのであって、信仰は私たちが福音を受け取る手のようなものです。

 

ここで或る問題が発生するかもしれません。「キリストに対する信仰によって無条件に罪が赦されて、戒めと律法からも解放されることは了解した。だがヤコブ書2章26節『霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである』と書かれているではないか」と問われたならば、私たちは「あなたの言う通りです。行いのない信仰は死んでいます」と明確に同意することができます。

ですがヤコブ書の「行い」(έργον)が何を意味しているのかが問題です。キリストに対する信仰と同格の行為義認も不可欠であると注意喚起しているのでしょうか。

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マルティン・ルター『聖パウロのローマ人にあたえた手紙への助言』(1522年)「律法」に関して述べながら行為義認の問題にも触れています。

 

まず「律法」と言うこの語を、あなたはここで人間的な意味に解して、どういう行いをなすべきかとか、なしてはならないとかを指示した教えであるかのように考えてはならない。

かようならことは、たとい心がそこになくても、行為だけで律法をみたすことができるので、人間的な規定にかかわることにとどまるが、少し神は心の根に従ってさばきたものである。

それ故神の律法も心の根を求めるのであり、行為を持ってはみたされない。

むしろ却って心の根にたよらない行いは、これを偽善及び虚偽として責罰したもうのである。

それ故詩篇第115篇には、すべての人を偽り人と呼んでいるが(詩篇116:11)、実際何人も、心の根から神の律法を守るものはなく、またそれはできないことでもある。

なぜなら誰しも自己のうちに、善への嫌忌(けんき)と悪への愛着とをも蔵しているからである。

善に対する心からの願いの存しないところでは、心の根は神の律法にかかっていない。

そしてそのとき、たとい外見的には多くの善行と貴むべき生活とが輝いていたとしても、罪もまた疑いなく存し、神の前には怒りに価いするのである。 

マルティン・ルター著『キリスト者の自由 聖書への序言』(岩波文庫) 69-70頁

 

このようなわけで、ルターは「律法の行為をなす」「律法を満たす」は別の事柄であると言っています。「律法の行為」とは「人が自分の自由な意志と自分の力とに基づいて律法に準じて行いまた行うことのできるすべてなのである。しかしかような行為の下にまたそれとならんで、心のうちに律法に対する嫌忌(けんき)と強制とが残っているので、かような行為は全て無に帰し、何の益にもならない」(同書72頁)。ですから、あくまでも「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られている」(ローマ書7:14)ため、身体的な行為によっては決して満たされるものではありません。

 

ローマ書

 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 

「律法の行為」と反対に、霊的な律法を強制されず、押し付けもされずに、聖霊歓喜と愛の故に自発的に、且つ、積極的に私たちはキリストの愛に生きることになります。「キリスト者になる以前の罪は赦されますが、キリスト者になった後に犯した罪は赦されない。罪が赦されるためには善行や償いがなければならない」という考え方は単刀直入に「律法主義」でしかありません。ですが聖化」における「善い行為」自体を否定しているわけではありません。

 

ガラテヤ書
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

 

霊的な律法を満たすもの、──それは聖霊によって神の愛を注がれた私たちの信仰なのです。何故ならキリストが律法を完全に実現して下さったことを信仰は同意するからです。だとすれば、キリストに対する信仰から真の善い行為が生じることは疑うことの不可能な事実となります。

 

エペソ書
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
2:10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

 

上記聖句の「良い行い」「行い」ヤコブ書の「行いのない信仰」「行い」と同じく「έργον」(エルゴン)が使われています。エペソ書ではキリストに対する信仰の恵みに基づき、私たちが救われたと断言しつつ、救われた後の聖化の過程のために「神は…良い行いを…あらかじめ備えて下さった」(10節)と強調しています。「あらかじめ備えて」「προετομάζω」(プロエトマゾー)で「あらかじめ準備する」「用意する」なので「神が前もって準備して下さった良き行為の故に」が直訳になります。

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聖書は一貫して「善い行為」救いの条件としてでなく、救われた後の聖化の結果として扱っています。しかも「人間の善い行為」でなく「神があらかじめ準備した善い行為」を信仰で受け続けていく歩みとなるのです。

 

神の言葉とは、福音書の中にあるような、キリストによって起こった説教にほかならない。

すなわちそれは、あなたの生活と行いとがすべて神の前には無であり、むしろあなたのうちにあるすべてのものとともにあなたが永遠に滅びるほかはないと、神があなたにお語りになるのを、あなたが聞くことであるべきだし、またそのようになされているわけである。

そのことをあなたが、自分でなすべきとおりに正しく信じるならば、あなたは自分自身に絶望して、「イスラエルよ、あなたの破滅が来る。あなたの助けである私に背いたからだ」と言うホセアの言葉(ホセア書13:9)が真実であることを告白しなければならない。

ところが、あなたがあなた自身から、すなわち、あなたの滅びから脱出できるようにと、神は、愛するみ子イエス・キリストをあなたの前に立て、その生きた、慰めのみことばによってあなたに、「あなたは確固たる信仰を持ってキリストに身を委ね、大胆にこれを信頼すべきである。そうすれば、その信仰のゆえに、あなたのすべての罪は赦され、あなたの滅びはすべて克服され、あなたは義となり、真実となり、平安を与えられ、義しくなり、すべての戒めは、充たされて、あなたはすべてのものから自由とされるであろう」と言おうとするのである。

マルティン・ルター著『キリスト者の自由 訳と注解』(教文館) 19-20頁

 

こうしてキリストをひたすらに信じて、信じ続けて、信じ抜く私たちには神が準備された善い行いを受けつつ、詩篇1篇3節「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」ように違いない。

 

第一ヨハネ
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。 

 

神を愛することはキリストに対する信仰の出来事ですし、加えて「イエスを神の子と信じる者」(5節)は世に対する勝利なのです。聖霊の第一の働きはキリストに対する信仰ですが、他方、聖霊の結ぶ唯一の果実は「愛」(αγάπη)なのです。神は愛です、そして同時に私たちがどんなに罪に腐敗し絶望の底で呻いていたとしても、神の愛が届かない場所はありません。

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神の愛をキリストの十字架の死と復活という恵みの故に信頼していきましょう。神に愛されている張本人は今、このブログを読んでいるあなたです。SNSもリアルも関係なく、もしもあなたが何らかの事情で教会の礼拝に参加できなかったり、まだ求道中で確信がなかったり、既存の教会組織や鼻で息をする人間に躓いてキズを深めていたとしても諦めるのはまだ早いと信じます。主は少なくとも、いつまでもあなたの帰還を待っておられます。力不足は承知ですが私もあなたのために祈っています。

 

ローマ書
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。