シンフォニーチャペルの栞

私たちはプロテスタント(福音主義)のキリスト教会です。主日礼拝(日曜日10時30分〜)、水曜日(聖研祈祷会)。当教会はエホバの証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教、その他新興宗教団体とは一切関係ありません。

キリスト教的な希望

北欧はデンマークキリスト教哲学者キルケゴール(1813-1855年)はヨハネ福音書11章のラザロの復活の記事を引用しながら、キリスト教的な希望に関して以下のように書いています。

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「この病は死に至らず」(ヨハネ伝11・4)。それにもかかわらずラザロは死んだ。キリストの弟子たちが、「我らの友ラザロ眠れり、されど我呼び起こさんために往くなり」というキリストのその後の言葉の真意を理解しなかったときに、キリストは弟子たちに直截(ちょくさい)にこう語った、──「ラザロは死にたり」(11・14)。かくてラザロは死んだ、にもかかわらずこの病は死に至らなかったのである。ラザロは死んでしまった、にもかかわらずこの病は死に至っていない。……中略。
よしラザロが死人の中から甦らしめられたとしても、結局はまた死ぬことによって終局を告げなければならなかったとしたら、それが彼にとって何の役に立とう? キリストが、彼を信ずるすべての人にとって復活であり生命であるような方でなかったならば、それがラザロにとって何の役に立とう? いな、ラザロが死人の中から甦らしめられたからして、その故ためにこの病は病は死に至らないのである。一体人間的に言えば死はすべてのものの終りである、──人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるのである。けれどもキリスト教的な意味では死は決してすべてのものの終りではなく、それは一切であるものの内部におけるすなわち永遠の生命の内部における小さな一つの事件にすぎない。キリスト教的な意味では、単なる人間的な意味での生命におけるよりも無限に多くの希望が、死のうちに存するのである、……中略。
それ故にキリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病」ではない。いわんや地上的なこの世的な苦悩すなわち困窮・病気・悲惨・艱難・災厄・苦痛・煩悶・悲哀・痛恨と呼ばれるもののどれもそれではない。それらのものがどのように耐え難く苦痛に充ちたものであり、我々人間がいな苦悩者自身が「死ぬよりも苦しい」と訴える程であるとしても、それはすべては──かりにそれらを病になぞらえるとして──決してキリスト教的な意味では死に至る病ではない。
キェルケゴール著『死に至る病』(岩波文庫)

 

キリスト教的な希望を再確認した上で私たちは聖書を開き、ダビデの信仰から聖書の黙想をしていこうと思います。

 

詩篇

18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。

 

詩篇18篇は冒頭の題にあるようにダビデがサウルの迫害から、主によって救い出されたことを歌ったものです。「広い所」というのは「מֶרְחָב」(メルハーブ)というヘブライ語が使われています。七十人訳旧約聖書(LXX)ではギリシャ語の「πλάτος」(プラトス)で「地上の広い表面」と訳されています。

 

ダビデ「広い所」という言葉によって、神が彼を助けられたことを思い出し祈っています。「わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました」の「助けられました」ヘブライ語「חָלַץ」(ハラッツ)「ρύομαι」(リオメー)で「危険から救い出す」「保護する」「守る」の受動相と同じ意味です。神は試練の中の彼を喜びとして、サウルの迫害から彼を救い出し保護して守って下さったのです。

 

しかしながらキリストを信じて何故、依然として私たちは苦しみ、思い煩って痛まなければならないのでしょうか。神は私たちの危険から救い出して下さる御方ですが、試練と困難、そして問題が襲いかかってくる度に絶えず祈り耐え忍ばなければならず、キリスト者の戦いは永遠の憩いに安息することは不可能のように思えてしまいます。

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預言者は次のような疑念の生ずることを、十分に念頭に置いているようである。

すなわち、神の恩愛について語られる度ごとに、「それでは何ゆえに、神はその民が苦悩し、かくも厳しい圧迫を、蒙るのを黙許されるのか」と。

そこでダビデは、このような場合にも、神の憐れみはわれわれにとって不足はない、と教える。

慰めと癒しとが、祈りのうちに備えられているからである。

時代的な状況は、もろもろの困苦がわれわれに迫れば迫るほど、その時はまさに祈るべき時であるということを、われわれに教示している。

すなわち、ダビデが、悩みのうちにあって祈った、そしてそれによって広い所に置かれた、と言う時がそうである。

カルヴァン著『旧約聖書註解 詩篇Ⅳ』(新教出版社) 97-98頁

 

そうであるならば、私たちにとっての「広い所」は一体、何処にあるのでしょうか。神に私たちは切実に祈りを捧げ続けているはずなのです。詩篇註解におけるカルヴァンの言葉に改めて注目してみましょう。「慰めと癒しとが、祈りのうちに備えられている」。祈りにおいて私たちは「慰めと癒し」という備えを信仰の手で受け取っていく必要があります。主からの「慰めと癒し」が隠されているのではないかと疑って、何も忙しく見つけ出そうと必死になることはないのです。

 

ローマ書

10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。

 

ですからダビデは試練から救い出されて、神に感謝していますが、同時に「広い所」に置かれたからだと理由を述べています。祈りにおいて神は慰めと癒しを与えて下さいます。「神の慰めと癒しが大きく広がっている場所」に私たちは招かれているのです。主の主、王の王からの招きを拒絶する理由など、私たちにはありません。

 

 ①神の慰め

第二コリント書
1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
1:5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。

 

②神の癒し

第一ペテロ書
2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

 

上記の聖句に共通しているのは〝キリストの十字架の苦難と死〟です。神は苦難の中にいる私たちに対して、キリストに満ち溢れている慰めを与えて下さる御方なのです。ただの人間的な同情や共感でなく(それらも当然含みますが)、神の愛の故の、──即ち、キリストの十字架の苦難と死に明示された神の愛の故に私たちの罪は背負われて癒されたのです。聖書の「癒し」「キリストの十字架の苦難と死という神の愛」から離れたものでは決してないのです。

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キリストの苦難と十字架の死を信じて祈る中で、神の慰めと癒しを受けた後、神は私たちをそのまま放置して見捨ててしまうのでしょうか。主は「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」(ヨハネ福音書14:18)と約束して下さいました。

 

第一コリント書
2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

 

主が導いて下さった「広い所」を預言者ホセアはイスラエルは強情な雌牛のように強情である。今、主は小羊を広い野に放つようにして、彼らを養うことができようか」(ホセア書4:16)と語っています。神はキリストの故に私たちを慰めて癒した後、小羊のように養って下さるのです。神は神の民の私たちを徹底的に養い続けます。主は私たちを捨て去ることなど不可能だからです。この世の旅路を歩む以上は確かに千差万別の戦いはありますが、余計な争いには関与したくないものです。

 

神に祝福されたイサクは裕福になりましたが、その結果、異邦人たちに井戸を塞がれたり、争いが続きました(創世記26:12-22参照)。その度に移動して、ついに争いのない井戸を掘ることができました。

 

創世記

26:22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから(מֶרְחָב)、われわれはこの地にふえるであろう」。

 

サウルによってダビデは何度となく死の恐怖に襲われたはずなのです。それなのに何故、詩篇において弱さの吐露と共に信仰を宣言し、神の裁きにその身を明け渡し委ねることができたのか不思議に思うかもしれません。ダビデの信仰、及び、その生涯を語り尽くすことはできませんが聖書の言葉を黙想して祈ることにして閉じたいと思います。

 

第二コリント書

1:8 兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、
1:9 心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。
1:10 神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。