シンフォニーチャペルの栞

私たちはプロテスタント(福音主義)のキリスト教会です。主日礼拝(日曜日10時30分〜)、水曜日(聖研祈祷会)。当教会はエホバの証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教、その他新興宗教団体とは一切関係ありません。

キリストの愛に生きる

Welcom to Symphony Chapel in Japan !!

私たちはキリスト教プロテスタント(福音主義)の正統信仰に立つ独立教会、シンフォニーチャペルです。2007年以来、神奈川県の小田急沿線で礼拝と宣教を続けていますが通常の礼拝の他、スマホタブレットの各機能を使っているので遠隔地からリアルタイムの礼拝が可能です。但しインターネット・チャーチではありません。普通の教会と申します。

諸教会との連携を大切にしたいと願い、ウェスレー主義の教団教会、主流派キリストの教会(有楽器派)、単立の諸教会等との友情の絆を横断的に結んでいます。

現在、キリスト教に関心のある未信者・求道者の方々に対して、或いは「仕事上の都合で日曜日、礼拝に参加したいけど参加できない」「諸事情で所属教会を探している」「誰にも話せない問題を抱えてて苦しい」「風邪を引いて家で休んでいるしかない」等、既にキリスト者の方々に対して、礼拝と司牧的配慮等を提供しています。

キリスト教の信仰に関する相談、礼拝の要望等は、Twitter(@RefrainNoel)のDMで初めは対応させていただいています。守秘義務は厳守致します。

 

キリスト教の信仰って何?〓

キリスト教は全人口における約30%以上の方々が信じる最大の世界宗教(religion)です。本来、英語の「religion」という言葉の語源は「神と強く結ばれる」「神と再び結ばれる」という意味です。

唯一神教多神教と違い、キリスト教の神は唯一にして三位格(三つの人格)が永遠の愛の関係を保って存在しています。天の父なる神(第一位格)、子なるイエス・キリスト(第二位格)、聖霊(第三位格)が同時に唯一の神なのです。ですから私たちは三位一体の神を信じています。

下記の「十字を切る祈り」に三位一体のエッセンスが凝縮されています。上から下の線は、天の父なる神から私たちに主イエス・キリストの十字架と復活に基づく《罪と死からの救い》がプレゼントされたことを意味しています。左から右への線はその救いが《三位一体の神》によって実現したことを信じるという意味です。最後の「アーメン」は「そのようになりますように」という祈願となります。

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キリスト教の信仰は所謂、内面的な心の安らぎ〝だけ〟を求める諸個人の主観的な宗教心を遥かに超越した、神が明らかにした愛の出来事です。何故なら「神は愛」だからです。「神はあなたを愛している」と聖書は証言しています。キリスト教の信仰は主イエス・キリストを信じて口で告白すること、──神の愛に対する私たちの応答なのです。

 

第一ヨハネ

4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。

 

〓聖書を読むこと〓

聖書は旧約聖書39巻+新約聖書27巻=全66巻によって構成されています。現在、聖書の現代訳としては新共同訳、新改訳、口語訳、フランチェスコ会訳等が普及しています。「旧約」は「旧い契約」、「新約」は「新しい契約」を意味しています。旧約は律法とも呼ばれますが、神の言葉を人間が実行しようとして破綻することであり、新約は福音(すばらしく良い知らせ)とも呼ばれる程、神の言葉をイエス・キリストが私たちに代わって実行して下さった恵みを意味します。

 

第二コリント書

3:6 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

3:9 もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。

 

聖書は神から私たちに贈られたラブレターと断言することができます。神の絶対的に無条件な愛から外れて生きることを《罪》と言いますが《犯罪》という意味ではありません。「キリストの愛に生きること」がシンフォニーチャペルのテーゼですが、聖書は〝キリストの十字架と復活に示された神の愛〟を余す所なく語り尽くしているのです。

 

ローマ書

4:25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。

 

「聖書を読むこと」の真の目的はキリストに対する信仰希望を私たちに与えることです。聖書は神の息が吹き込まれた言葉であり、聖書の言葉は、キリストを信じる私たちを死から永遠の命に満たされた霊的旅路へと歩ませます。

 

第ニテモテ書

3:16 聖書は、すべて神の霊感(息吹)を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 

〓主イエス・キリスト

聖書の証言する主イエス・キリストを信じることがキリスト教の出発点ですが、信仰には主体的な次元と共同体的な次元が存在しており、神を礼拝することと結合しています。

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ですから、キリスト教の個人としての信仰を教会と切り離して神を礼拝することは不適切なのです。キリスト教の信仰は教会の信仰と矛盾しないよう礼拝の中で開花します。そして、神を礼拝すること諸個人の信仰教会の信仰は規律や宗教的な日課なのでなく、神の愛を聖霊によって注がれた私たちがキリストを信じた歓喜を動機としています。

 

詩篇

37:4 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。

 

何と上記の「喜び」という聖句は「贅沢三昧」が直訳です。主は山上の垂訓(マタイの福音書5章〜7章)において以下のように語っています。

 

マタイの福音書

5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

 

キリストを信じると私たちは〝キリストによって霊的な貧しさが満たされて、神の愛に基づいた贅沢三昧に生かされる〟ことが許されたのです。無論、自由奔放主義でもなければ、禁欲主義でもありません。キリストを信じて神を礼拝することこそ、神を愛して自分を愛するように隣人を愛していくこと、──キリストは神と人間の間の唯一の〝架け橋〟となって下さった御方。

 

第一テモテ書

2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

 

キリストは神の御子であり、同時に完全な人間が統合された御方です。「人なるキリスト・イエスという聖句は〝主の完全な人間性の強調〟です。旧約聖書のヨブは試練の中で次のように預言しました。

 

ヨブ記

19:25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

 

キリストは神ですが唯一の罪無き人間だったので、私たちの弱さと無力、苦しみに寄り添って下さいます。

 

ヘブル書

4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。

 

神の愛から外れた罪から私たちはキリストによって救われます。では一体、どのように救われるのでしょうか。

 

ローマ書
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

 

このようにキリスト教の信仰を語り尽くすことができませんが、日本国内でキリスト者人口は約1%です。100人に1人いるかいないかの圧倒的なマイノリティーにも関わらず、一般の方々も〝キリストの誕生日であるクリスマス〟を祝い、殆どの方々がキリスト教式〟で結婚しています。あなたは神に愛されるために生まれました。

 

〝キリストを信じて生きること〟〝キリストの愛に生きること〟なのです。未信者にせよ、キリスト者にせよ、神はこのブログを通して、あなたと私たちを出会わせて下さったと信じています。近隣の教会に通うことになるにせよ、所属教会に戻るにせよ、シンフォニーチャペルのメンバーになるにせよ、──未来のことは予測不可能ですが、キリストに重荷を下ろして、神の豊かな恵みをあなたが味わって欲しいのです。そのためのお手伝いを私たちは可能な限り全力でサポートしていきます。

 

ヨハネ福音書
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。