マリア崇敬の「言語化」試論
あくまでも以下は、マリアに対する「崇敬」の意味的な分析の断片であり、一切、編集・校正されていない断片である。ご了承願いたい。
英語
Veneration of Mary
Veneratio Mariae
ヴェネラティオ マリエ
veneratio(ヴェネラティオ)は「崇敬」だが「敬愛」と訳した方がわかりやすい。
他方、「cultus」(クルトゥス)は「礼拝」「崇拝」という意味であり、ラテン語において礼拝と崇敬は厳密に区別されている。
英語の「veneration」はラテン語を語源としているため、「崇敬」「尊敬」「崇拝」という意味である
ところが英語の「respect」はラテン語の「respicio」(レスピシオ)を語源としており本来、「振り返る」「見回す」という意味なので、「マリアを尊敬する」という表現は不適当であろう。
しかし反対に「マリア崇敬」の本質は「マリアを(幸いな者として)見る」ことにある。
キリスト者はマリアの信仰に自分自身を重ね合わせ、マリアを「教会の原型」として見るのである。
"この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。"
ルカの福音書 1章48節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかしながら、キリストを「見ないで信じる者は幸い」なのである。
"イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
キリストを信じて神を「礼拝する」(羅 adorate)のは、マリアを「崇敬する」(羅 respicias)ことと明らかに異なっている。マリア崇敬に慣れ親しんでいる方々にも、マリア論が不要にはならない理由である。
カトリック神学の内から見ればわマリア論は、その他の教義神学上の主要なテーマが出会う交差点に位置づけられます。
光延一郎著『主の母マリア』(教友社) 16頁