竪琴音色キリスト教会の栞

私たちはプロテスタントのキリスト教会です。主日礼拝(日曜日10時〜)、水曜日(祈り会)。当教会はエホバの証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教、その他新興宗教団体とは一切関係ありません。

集会の家 domus eccleciae

竪琴音色キリスト教は開拓当初、礼拝区分が説教と聖餐式、そして祝祷に限られていました。キリストの福音を純粋に告げ知らせていきたい、ただそれだけの願いでした。以前、私が所属していたプロテスタントにおける〝福音派〟の教会と違い、賛美も楽器演奏もなく、神の言葉と聖礼典オンリーの礼拝を捧げていたのです。無楽器派の独立教会だったと思い出すことができます。2017年現在、教会の公用聖書新改訳第三版です。聖書の訳は他に新共同訳、口語訳、フランチェスコ会が代表的な委員会訳個人訳よりもお勧めします。今後、新改訳2017(年内刊行)、標準訳(仮)が予定されており、改めて公用聖書をどうするか、教会で検討されることになります。

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初期の頃から、プロテスタント教会として聖書の権威を教会の基礎にしなければならず、説教によって福音が語られ聖礼典が適切に執行されることを柱としてきました。聖書と福音理解、及び、聖礼典である洗礼と聖餐式を固守することで、キリスト教会がそこに存在するか否かが問われるのです。

 

宗教改革者のジャン・カルヴァン(1509年-1564年)は主著『キリスト教綱要』において次のように書いています。

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教会の姿が我々に出現し、また目に見えるようになるのはここからである。なぜなら「二、三人が我が名によって集まる所に、私は彼らのただ中にいる」(マタイ18:20) との約束は欺くことのあり得ないものであって、神の言葉が真摯に 説教されまた聞かれる所、聖礼典がキリストの制定に従って執行されると見られる所、そこに神の教会があることは何ら疑うべきでないからである

渡辺信夫訳『キリスト教綱要 改訳版 第四篇』1・9 新教出版社

 

本質的に教会教会堂のことではありません。キリストを信じて「イエスは主」と告白する者たちが、神の言葉の説教に耳を傾け、洗礼と聖餐式にあずかる集会(εκκλησία)なのです。

 

第一コリント書

12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

 

ですから、教会は時間や場所、建築物等、世俗の事柄によって左右されません。「この曜日と時間帯でなければならない」「教会堂を建築しなければならない」という主義主張の有無はさておき、キリストにおいて神を礼拝する私たちこそ教会なのです。

 

コロサイ書
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

 

キリスト教と言えば綺麗な教会堂があり、礼拝空間とプライベートが区別され(集会と家)、主日礼拝の日曜日の仕事は絶対に休むことを厳守するように注意されたり、或いは自発的な感謝としての献金が強制されることも無きにしも非ず。

私たちはプロテスタントに導かれたキリスト者たち、未信者の方々と関与しながら、教会が信仰者の礼拝のため、徹底的に仕えていくにはどうすれば良いか?と問い続けてきました。

 

①礼拝の曜日、時間帯等は事前連絡があれば変更可能にしたこと。

キリスト者だったとしても所属教会にも通わず、すっかり世俗化して信仰の回復を要する漂流する方々へのフォローをすること。

③古代のキリスト教の礼拝において神への奉献は献金だけでなく、食材や物品、衣服等も含む献品も捧げられていたので、自由な献金と献品の両方、若しくはどちらかを推奨していること。

④地理的距離の問題。竪琴音色キリスト教の礼拝に参加したいけれど、あまりの遠距離の故に参加できない方々のため、VINE AND GRACE MINISTRYという教会のネットワーク機能(FaceTime、LINE、Skype等)を視聴覚的ツールとして使っていること。但し、洗礼式の場合、国内なら何処にでも行き、望まれるならば私が執行します

聖餐式は毎週、主日礼拝の度に執行していること。

⑥宗教的な肩書きや、それに類した制度・組織に代えて、キリスト教的人間観に基づく司牧的配慮と、神の愛に満たされた霊的な家族(οικος)の構築を最優先していきます。

⑦これらの実現のため、キリストに対する信仰で一致して互いに愛し合うこと、聖書は神の息が吹き込まれた言葉であり、キリストのすべてを支配する権威(εξουσία)が与えられた証言だと認めること、

 

第二テモテ書

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 

「霊感」「θεόπνευστος」で「神の息が吹き込まれた」という、聖書を読む者に命を与える積極的な意味です。聖書は「神の誤りなき言葉」だと強調したい時、以下の聖句の方が的を射ていると言われます。

 

第二ペテロ書
1:20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

 

加えて、キリスト教の教理教育を継続的に受け続けるならば、キリストに対する信仰を更に深めて互いに愛し合い、断固として異端を退ける、──それこそが教会の本質を示す基準です。

 

カルヴァンは教会に関して引き続き、以下のように述べています。

 

教会を識別する旗印は、御言葉の説教および聖礼典の遵守であると述べた。この二つは実を結ばずにはおかず、神の祝福によって栄えるからである。私の言うのは、御言葉が宣ぺ伝えられる所ではどこでも忽ちに実が生じる、ということで はなく、これが受け入れられ確乎たる地位を得た所では効力を発揮せずにおかない、という意味である。

渡辺信夫訳『キリスト教綱要 改訳版 第四篇』1・10 新教出版社

 

神の言葉の力に満たされる教会の条件は説教と聖礼典の執行であって、他に何か特別の条件が課せられることもないしその必要もありません。プロテスタントは聖書と伝統を同格にしませんが、聖書解釈の伝統に教会が支配されてしまう可能性を否定できません。反対に、聖書解釈の伝統に抗うために牧師中心主義となることもあり得ます。私たちは教会によって聖書を解釈するのでなく、聖書によって教会が改革されることを知らなければなりません。

 

冒頭、説教と聖礼典の執行、祝祷だけだった竪琴音色キリスト教は、帰国子女の教会員が集まった時は英語の賛美を、ペンテコステ派教会出身の教会員が集まった時はワーシップを、極端に苦しい問題を抱えた方々が集まると主日礼拝の他に平日の学びと交わりを重視しました。

 

キリストの権威を聖書、特にマタイの福音書から確認していきます。
①いっさいの権威
マタイの福音書
28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

「いっさいの権威」は「πασα εξουσια」(パサ エクスーシア)で「すべてを支配する権威」を意味しています。

 

②教えの権威
マタイの福音書
7:28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

「律法学者たちのように」とは旧約聖書の解釈法やラビの諸伝承に精通し、宗教上の諸問題を決定する者たちのように、ということです。

しかし主はそれらの聖書解釈の伝統や使徒継承に対して「しかし、わたしはあなたがたに言う」(5:22、28、32、34、39、44、6:29→7回の定型文)という宣言を対置しています。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」 (5:17)と宣言することができたのです。

 

③罪を赦す権威
マタイの福音書
9:6 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。

主は中風の人の罪を赦しましたが、この「罪」は複数形で「諸々の罪」のことです。諸々の罪の生産工場である「原罪」「単数形の罪」はキリストの十字架の死に至るまで待たなければなりません。

 

④悪霊を追い出す権威
マタイの福音書
10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。

すべての病気が悪霊から生じるわけではないですが、罪の結果として私たちに死が導入されたのは事実であり、「あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす」ことは悪霊に罪を利用されることと、罪の悪い結果からの解放と癒しです。

 

このように「いっさいの権威」とは「教えの権威」「罪を赦す権威」「悪霊を追放する権威」を中身として「神の権威」を意味しています。キリストの十字架は神の教え、罪の完全な赦し、敵を退けるものなのです。

 

そして教会には神の権威を持つキリストが与えられています。

エペソ書
1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

 

神の息が吹き込まれた聖書によって教会は霊的に改革されていきますが、キリストの権威を聖書は証言しているからこそ、神の民としての私たちは神の国に至る旅路を聖霊に導かれていくのです。

 

現在、私たちは賛美・聖言・聖餐の区分を変更し聖公会祈祷書』に準拠した、伝統的な礼拝に回帰する過渡期の中にいます。説教では各種邦訳に加えて何冊かの英語訳を参照していた段階から、不思議な導きでギリシャ語初歩の手ほどきを受ける機会があり、七十人訳ギリシャ語聖書(LXX)を旧約聖書の釈義に使うようになりました。キリスト教神学もプロテスタントの文献だけでなく、カトリシズムの文献も紐解くようになり、エキュメニカルな神学研究所で学ぶこともしました。

 

ヨハネ福音書
2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

 

キリストを礼拝する集会はエルサレム神殿からの追放後、それぞれの家(οίκος)で神を礼拝することになりました。家々の中で特に多くの人々を集まれる大きな家は「集会の家」(domus ecclesiae)と呼ばれていました(J.A.ユングマン著『古代キリスト教典礼史』平凡社)。キリスト教会の本質は建築物でなく神の家族なのです。

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ヘブル書
13:10 わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。
13:11 なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。
13:12 だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。
13:13 したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。