聖霊による信仰
現在、聖霊に関して述べることは非常に勇気を要することです。その最大の理由は三位一体の神の第三位格としての聖霊と、聖霊の賜物と果実を区別できていないことから由来する対立・議論だと思われます。
しかしながら、キリスト教は伝統的な儀式だとか、神学、日常生活における信仰的実践に限定されるものではありません。
キリスト教信仰には当然、体験的な真理を含んでいるのです。
そして体験的な真理を得させる御方は聖霊がキリストに私たちの心を向けさせることに基づきます。
未信者の時、私は日本人として珍しく徹底した無神論者を自認していました。フランス文学や哲学に傾倒し、初詣や仏壇に対して宗教的な所作を拒絶していた程です。正直、あれらの祭りや儀式は宗教家たちのお金儲けだと考えていたし、キリスト者になった今も極力、礼拝から宗教的な要素を簡略化させるよう、努力しています。特に金銭の何らかの癒着に日本人は厳しい視線があるので、献金に関して慎重に考え、本人の自発性を励ますだけです。
さてキリスト教に限らず宗教嫌いの私が何故、キリスト教の信仰に導かれたのか?という具体的な経緯は後日に委ねて、三位一体論という正統教義を死守したいならば決して避けて通れない聖霊に関して基礎的な考察をしたいと思います。
〓聖霊によって祈る〓
キリスト者と未信者を区別するものは様々ですが、神に対して〝祈ること〟はキリスト教信仰の特筆すべき事柄です。
神に祈ることは何か必死に願い事をしたり、自分自身の御利益を求めることとは限りません。それらも含みますが、祈りの中身は神の望むことを望み、神の喜ぶことを喜び、神の悲しみを悲しむことなのです。
では一体、神の御想いを感じ取るにはどうすれば可能となるのでしょう。
ローマ書
12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
相手の気持ちに共感したいと思う時、私たちは同じ感情を共有したいと切に願うものです。そのためには相手の心に寄り添い、小さな声を傾聴して、主の愛に満たされていなければ心の琴線に伝わらないかもしれません。
第一コリント書
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
神は私たちに三位一体の第三位格である聖霊を与えて下さったのです。
私たちは自分自身の事でさえ理解できないことがあります。否、真の意味で自分が自分であるという自己同一性(アイデンティティー)を保って生きる術を私たちは持っていません。
時に妥協し、自分に対してさえ偽り、私が誰であるかすらもわからなくなってしまう、──これがリアルの不条理です。
だからこそ、キリストを恵みの故に信じるならば、私たちは理不尽で説明不可能な世という地平で、神に向かって心を上げるしかありません。
天の父なる神に
キリストの御名を通して
聖霊によって
キリスト教の祈りは神の愛を動機とし、聖霊によって注がれ、初めて味わうことができる、三位一体的な関係の中の会話です。あなたも孤独と訣別して神に祈る幸いを経験してみませんか。
〓聖霊という無償の賜物〓
神学的に「聖霊のバプテスマ」「聖霊の賜物」「異言の賜物」等、聖霊に関して語ろうとしたら言葉が足りないでしょう。
しかしながら聖霊がどのような御方であるかを認識することは、あなたの大切な家族、大好きな異性、仲の良い友人たちを愛することへと結び合わされているのです。
第一ヨハネ書
4:16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
4:19 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
神の愛を注ぐ聖霊の第一の働きは何でしょうか。 言うまでもなく聖霊の賜物や果実を与えることではありません。キリスト対する信仰に導くこと、これこそ聖霊の第一の働きなのです。
しかし、信仰こそが御霊の主要な業であるから、聖書が御霊の力と働きについて至るところで示していることの大部分は信仰に関したものである。なぜなら、信仰によらなければ御霊は我々を福音の光に導くことができないからであり、それはヨハネが「キリストを信じる者には神の子となる特権が与えられた。彼らは肉と血から生まれたのでなく、神から生まれたのである) (ヨハネ1:12-13) と言う通りである。ここでは、不信仰に留まるほかなかった者が信仰によってキリストを受け入れるのは超自然の賜物であることが、神と血肉を対置することによって確言されている。キリストが「あなたにこのことを啓示したのは血肉でなく、天に在す私の父である」と答えられたのも同じである(マタイ16:17)。
テサロニケの人々が「御霊の聖化と、真理の信仰によって、神に選ばれた」(第二テサロニケ2:13)と言うのも同様である。彼はこの文脈で、信仰は御霊によらなければ生じないことを簡潔に警告している。
ジャン・カルヴァン著『キリスト教綱要 改訂版 第三篇』(教文館) 1・4
〓聖霊による信仰〓
ΠΡΑΞΕΙΣ ΤΩΝ ΑΠΟΣΤΟΛΩΝ 2:38
Πέτρος δὲ ἔφη πρὸς αὐτούς· Μετανοήσατε, καὶ βαπτισθήτω ἕκαστος ὑμῶν ἐπὶ τῷ ὀνόματι Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰς ἄφεσιν ἁμαρτιῶν, καὶ λήψεσθε τὴν δωρεὰν τοῦ ἁγίου Πνεύματος.
使徒行伝
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
口語訳では「聖霊の賜物」と訳されていますが、新共同訳と新改訳とフランチェスコ会訳では「賜物として聖霊を」と訳されています。
「καὶ λήψεσθε τὴν δωρεὰν τοῦ ἁγίου Πνεύματος」には「λαμβάνω」(ラムバノー)の未来形が使われており「受けるであろう」という意味。
注意しなければならないのは「τοῦ ἁγίου Πνεύματος」をどのように訳すかです。
これは「内容の属格」という用法で「聖霊の」でなく「聖霊という」と訳さなければなりません。「δορεά」は「無償の賜物」という意味なので「聖霊という無償の賜物を」となります。
キリストを信じると「聖霊の賜物を受けるであろう」なら、むしろ「χάρισμα」を使うべきでしょう。
「そうすれば、あなた方は聖霊の賜物を受けるであろう」。この「聖霊の賜物」は、聖霊を賜物として賜わることである。聖霊の賜わる賜物としての異言や癒しや悪霊祓いの力を受けるという意味ではない。つまり、あなたがたもキリストの名によるバプテスマを受けることによって我々の仲間になり、我々が先に受けた聖霊をあなたがたも受けるのだ、と言うのだ。
渡辺信夫著『使徒行伝講解説教 1」(教文館)
使徒行伝の他の聖句を確認してみましょう。
使徒行伝
10:44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。
10:45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。
「内容の属格」だからといって、聖霊=賜物→聖霊は非人格的な存在、且つ、神の第三位格にならないという主張に根拠は無いのです。何故なら、ルカは「聖霊がくだった」ことが「聖霊という無償の賜物」として対応させているからです。
使徒行伝
11:17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。
ここでも聖霊を「主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物」と明記しています。聖霊はキリストを信じた故の無償の賜物であり、聖霊の賜物はその結果であることを厳密に区別して読まなければなりません。
ヨハネの福音書
4:10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
ヨハネも「神の賜物」と述べており、主は永遠の命を与える御方としてサマリヤ人の女性に聖霊を伝えています。
以上、或る方々にとっては無味乾燥な内容だったかもしれません。他方、僅かでもキリストを聖霊によって信じることの奇跡をニュアンスとして感じ取って下されば嬉しいです。
ユダ書
1:20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、
1:21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。